中京節の立役者・鼈甲斎虎吉(初代)

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中京節の立役者・鼈甲斎虎吉(初代)

 人 物

 鼈甲斎べっこうさい 虎吉とらきち(初代)
 ・本 名 高橋 茂
 ・生没年 1861年12月~1915年以降
 ・出身地 
静岡県

 来 歴

 鼈甲斎虎吉(初代)は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。二代目鼈甲斎虎丸の一番弟子と知られ、名古屋系の浪曲の芸の確立に足跡を残した。

 経歴は不明な点が多いが、『浪花節一代』によると、元々は「遠州浜松の駕籠屋」だったという。曰く――

 初代虎吉はもともと吉之助(二代目虎丸)の弟子だったんですが、師匠がまだ年期中なので初代虎丸の弟子ということに一応なりました。このひとは遠州浜松の出身で、もとの稼業が駕籠屋だったところから、これを呼ぶのに”カゴヤ虎吉”といっていました。

 まだ浪曲が浮かれ節――と言っていた時分に入門。当時売り出しの若手・鼈甲斎吉之助に弟子入りを乞うた。

 この吉之助は1872年生れなので、師匠と弟子の年齢がアベコベという珍事があったという。ただ吉之助はまだ若手の事もあってか、初代虎丸に預けられ、兄弟弟子という形で育成される事となった。

 吉之助の入門が1889年頃――なので、1890年代の入門か。30代の入門とはずいぶん遅い方である。

  それでも好きで入った道故、見る見るうちに芸を覚えていき、独立。鼈甲斎派の新鋭として売り出す事となった。

 ただ、この当時は吉川虎吉と云う人物もいるため、非常に判別が難しいことになって居る。

 1894年4月27日、師匠の虎丸が40才の若さで死去。これを機に独立を考える。

 翌年の1895年正月、小石川目白亭にて一本立ちをした模様か。この1月、兄弟子で師匠分だった吉之助が「二代目鼈甲斎虎丸」を襲名している。

 爾来、虎丸・虎好などと共に関東浪曲界の売れっ子として目覚ましい活躍を続けた。足こそ悪かったものの、美声で啖呵がうまく『寛政力士伝』などの噺を得意として読んだ。

 1911年1月、春江堂から出版された浪曲番付では前頭7枚目に君臨。前頭筆頭が玉川勝太郎、次いで浪花亭峰吉……という並びを見ると相当な人気を得ていたことが判る。

 1915年の『芸人名簿』では芝新明町に住んでいる様子が確認できる。「鼈甲斎虎吉 高橋茂平(文久元、一二)」という記載があり、本名はここから割り出した。

 この後もしばらく健在だったというが没し、弟子が二代目虎吉を継いだ――という。

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