関東大震災で死んだ吉田虎右衛門

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関東大震災で死んだ吉田虎右衛門

 人 物

 吉田よしだ 虎右衛門とらえもん
 ・本 名 鈴木 常夫
 ・生没年 1883年~1923年9月1日?
 ・出身地 名古屋

 来 歴

 吉田虎右衛門は浪花節黎明期から大正時代にかけて活躍した浪曲師。名古屋きっての名家に生れたが親子ともども零落し、関東で一旗をあげて立派な浪曲師となり、後年は関西でも活躍したが、関東大震災に巻き込まれなくなったという。

 実家は名古屋有数の名家で、名字帯刀を許されるほどの家柄あったが、父が身を持ち崩し、浪花節語り「吉田岩一」にまで落ちてしまったという。

 経歴は『浪花節名鑑』に詳しい。 

氏は明治十六年名古屋市橘町尾張大納言後の御用達駿河屋に生る。父は伊藤。大丸。笹宗。駿半と申して四軒の家に数られ帯刀御免士族の連に加へられ。講釈を好み御前にて講談をなし。後浪花節となり芸名を吉田岩一と称し。其嫡子にて幼少の頃より父に見習一言一句妙味を覚え廿歳の歳より東都に上り当時関東一と称されし三河家円車と義弟を結び一座をなし名声を揚げたり。而も円車を補助し二人看板にて各劇場のみ打て居りしが感ぜる所ありて当地に来り親友派に加入して非情の講評を博せり。其節調の如きも自分の工夫したる独特のものにして聴者をして非常に満足を与ふ。

 幼くして父より浪花節の手ほどきを受けて、旅回りを続けていた。後年、父と共に上京。東京の寄席に出勤するようになったという。

 1903年4月、伊皿子亭で鼈甲斎虎丸と共に看板を上げている様子が確認できる。まだ20そこらであったが既に一家を成していたとみるべきか。

 優美で真面目な節と語り口が売りだったそうで、『佐倉義民伝』『義士伝』『小栗判官』といった忠義モノや『津田三蔵』『日露戦争』といった近代物を得意としたという。

 明治末には既に一家を成しており、浪花節大会などでも真打として推されるほどであった。また当時流行っていた浪花節の速記本にも何本も掲載がなされている。

 1910年時点で(『無名通信』3月号)では、浪花亭峰吉、三河家円車、春日亭清吉などの「大看板」に次ぐ「中看板」として、木村重松、東家楽燕、鼈甲斎虎丸などと共にランクインしている。しかもその後ろに「尤も場合によっては大看板並に扱われる」と記されており、若手の新鋭として高く評価されていたとみていいだろう。

 1911年1月に発表された浪花節番付では「前頭6枚目」。

 大正に入って関西に移籍し、親友派の会員となる。

 関西移籍後、流れて来た盲目の三味線曲師・琴奏者の東天紅を起用し、二人で歩くようになる。天紅が琴に秀でていた事から「琴入り浪曲」を演じるようになったという。

 関西を中心に活躍し、1920年代に入ると日東レコードからも吹込みの話が来るなど、待遇は悪くなかった。親友派の幹部にも昇進し、芸も円熟を迎えた。

 しかし、50才を迎えようとした矢先の1923年9月、関東大震災に巻き込まれたそうで悲劇の死を遂げた。翌年出された『増補浪花節名鑑』では「大正十二年九月震災の為死去」と生々しくその最期が刻まれている。 

 生前吹き込んだであろう浪花節のレコードは、1924年以降に出されるようになったのは皮肉というより他はない。

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