朝倉文夫推薦の天才少女・末廣玉士

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朝倉文夫推薦の天才少女・末廣玉士

 人 物

 末廣すえひろ 玉士たまし
 ・本 名 村上 たま
 ・生没年 1902年~?
 ・出身地 ??

 来 歴

 末廣玉士は戦前活躍した女流浪曲師。才能・美貌を持ち合わせた芸格を持ち、青柳有美、朝倉文夫など文化人のすいせんで一躍スターダムにのし上がったがわずか数年で表舞台から消えてしまった。

 本名と生年は『読売新聞』(1926年3月12日号)から割り出した。曰く、「本名を村上たまさんと言ひ、取つて廿三歳」。

 震災後、浪曲界に入り、新しい浪曲を打ち立てんと奮闘を続けた。若くて才能があって美貌の持ち主だった事から、文化人の贔屓がつき、一躍売り出されるようになった。

 1925年11月6日、出来たばかりのJOAKに出演し、「山内一豊の妻」を放送している。

 1925年12月には、常磐座の浪曲大会に一枚看板で並べられ、木村友衛、桃中軒如雲、松風軒栄楽と共に競った。

 1926年、本格的に後援会と推薦が出来たそうで、『読売新聞』(1926年3月12日号)の「末廣節の玉士嬢 美術界其他のお歴々がお提灯もち」という記事に――

 浪曲界の新進――末廣玉士嬢なるものゝゲイジュツにすつかりホントに感激したといふ
 彫刻家朝倉文夫、洋画家中沢弘光、杉浦非水、萩原一羊、漫画の北沢楽天、それに出版界の権威田中松太郎、女の事では第一線に飛び上る青柳有美、美術批評家の坂井犀水の八氏が発起人となり来る十四日の日曜の午後一時から、ところも上野の美術学校クラブで末廣会の名に於て、同嬢の末廣節二席を同好に聞かせて感嘆を深からしめようとその企てが成つた、発起人かそれぞれに褒めそやし提灯持ちの及ばん限りをつくしてゐるわが末廣玉士嬢とはそも/\何者だらうか、本名を村上たまさんと言ひ、取つて廿三歳、有美先生は
「浪曲界未だ見ざる天びんの妙技に加ふるに玉の如き美音と天性の慇賞とを以てし、世に所謂三拍子を兼ね備ふるものなり」
 との御託である。

 こうした贔屓を受けてめきめきと頭角を現すようになった。

 1927年6月6日、日本弁護士協会発足30周年記念大会に列席。十八番の「義士伝」を演じ、喝采を浴びたという。『法曹公論』(7月号)の中にその芸評が出ている。

かくてプログラム通り末廣玉士嬢の浪曲に依つて余興の幕は切つて落された。玉士嬢は青柳有美、萩原一羊氏等の紹介に依て、浪界に彗星の如くに現れた新人である、嬢は稍ともすれば下卑に流れんとする従来の浪花節を芸術化とし、高尚に有美に演ぜんと勢力を払つてゐる前途有望の士である、此日の語物は浪曲十八番の粋「南部坂雪の別れ」の一節である。美しいその容姿から出る玉をころがすが如き美声と、気品に富むその語りくちは、聴衆の魂を奪はなくつては止まない。語りゆくうちに熱さへ加はつて約四十五分に亘る長講も絶へず拍手のうちに演了したのは天晴れの出来ばへであつた。

 しかし、この公演を最後に消息が徐々に分からなくなり始め、いつしか消えてしまう。謎である。花の命は短くて苦しきことのみ――とやらか。

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