巨漢・桃中軒星右衛門

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巨漢・桃中軒星右衛門

 人 物

 桃中軒とうちゅうけん 星右衛門ほしえもん
 ・本 名 深澤 平吉
 ・生没年 1872年1月20日~1920年代?
 ・出身地 山梨?

 来 歴

 桃中軒星右衛門は浪曲黎明期に活躍した浪曲師。公称174センチという当時としては恐るべき巨躯の持主で、「出雲大社教大補教」という肩書で雲右衛門調の浪花節を唸りまくった。

『浪曲家の生活』などをみると「甲府の床屋の親方」であったという。田舎で慎ましく暮らしていた男が、突如勃興した浪花節に志を立てたとみるべきか。

 また、『台湾日日新聞』(1910年3月20日号)の広告に、

此星右衛門は元二六新報の記者にて宮崎滔天と共に斯道に当時、当年三十八歳なるが、浪花節を志したるは三十二歳の頃よりなり。

 とある。インテリだった模様か。

 記者であれば出雲大社教や雲右衛門に関与できる。ただ、それ以上の理由は不明。

 1907年頃、「出雲大社教教師」という肩書と束帯姿で舞台に上がり、神道講釈の浪花節をやる姉川左近なる人物がいたそうであるが、これが星右衛門の前歴だろうか。

 雲右衛門の上京と売り出しに合わせるかのように、東京でも出没し始め、「武士道鼓吹出雲大社教大補教」なる滅茶苦茶な肩書で寄席や劇場に出演。雲右衛門と同行して修業を積んだ事もあるという。

 若い頃は名古屋で修業していたらしく、『読売新聞』(1908年6月20日号)に、

▲名古屋には星右衛門と云ふ名は桃中軒雲右衛門の向ふを張つて而も星は雲よりもまだ一層上に位すると云ふ処から取つたのださうな

 1911年春、満州を巡業。その中にプロフィールらしきことが書いてあるので、引用してみよう。

『満州日日新聞』(4月30日号)に、

●星右衛門來る 日本純正武士道鼓吹者出雲大社教大補教と肩書附きの桃中軒星右衛門丹後舞鶴を打揚げ廿八日朝着の天草丸にて上陸したるが来る一日より歌舞伎座に興行する由一座九人必死となつて桃中軒の名を汚さぬやう演ずと云へば雲右衛門に続いて雷右衛門、星右衛門と天上しさうな浪花節の大流行に定めし大受けなるべし

『満州日日新聞』(5月2日号)に、

◎雲去り雷退きし歌舞伎座に一日夜より続いて星が現はれた、身長五尺七寸六分童顔総髪の桃中軒星右衛門、其の技は未知数であるが、雷如き衒氣を持たぬと『藝術家は自から精神上の貴人である』といふが如き精神綱領を抱いて居る所が些か話せるやうに思ふ、まつたく平凡、貧弱なる思想と感情と闘ふは藝術家の本領として守らざるべからずである

 1915年発行の『芸人名簿』には本郷区の住人として記されている。ここから本名・生年を割った。

 1917年、雲右衛門の納骨式に列席したのが最後の大きなイベントで以降は寄席や劇場出演からも消えるようになる。

 1920年代に入ると既に消息が途絶え、逆に二代目小柳丸を襲名する人物のほうが台頭するようになる。この辺りがごちゃ混ぜなのでよく判らない所がある。

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