関西風江戸前浪曲・京山大教

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関西風江戸前浪曲・京山大教

 人 物

 京山きょうやま 大教だいきょう
 ・本 名 山田清八
 ・生没年 1870年代?~戦後?
 ・出身地 関西

 来 歴

 戦前活躍した浪曲師。関西で修業をした関西系の芸人であるにもかかわらず、東京で売り出したという稀有な例を持った人物であった。晩年は四谷に「京山亭」という寄席を持ち、興行師としても活躍した。

 出身等は不明。若くして二代目京山恭安齊に入門し、浪曲師となった。京山小圓や京山若丸とは兄弟弟子の関係となる。

 1900年代に上京し、東京浪曲の一員となった。関東節全盛の時代に関西節一本で活躍したというのだから恐れ入る。

 ユーモアあふれる舞台は高く評価され、「水戸黄門」「一休禅師」などのケレンが十八番であった。大看板の邪魔にならない、それでいて味わい深い芸は、多くの人から愛されたという。

正岡容は『雲右衛門以後』の中で、

 京山大教 
 京山恭安齊門下である。
 小圓と云ひ、若丸と云ひ、大教と云ひ、恭安齊は門生から大家中堅を数多輩出せしめてゐる。
 この人は生粋の上方の人で、関西節であり乍ら、若くして上京。その売出しはことごとく東京に於てであつた。 
 品のいい節で、身体を動かさず「一休禅師」「水戸黄門」などの滑稽物を、常に語った。それが普ねく江湖に迎へられるところとなつた。 

 と述べている。

 一方で、独特の関西節や関西弁交じりの浪曲は賛否両論だったらしく、『新仏教』(1906年10月号)の『浪花節評』の中で、

 ▲京山大教君 夫の有名な初代京山恭安斎君の系統に属する人で(今でも京山恭安斎君といふものがあるが、もとより言ふに足らない。)聲は悪いが、話も軽く、筋もよく通る。たゞ失を言へば、この君の語り出す人物は、どこの国の人間でも、大体上方言葉を使って仕舞ふことである。江戸の商人が、箱根の関所で「わたい」「どうだす」「おまへんか」などは、大手ひどいものである。

 と批評をつけられており、『読売新聞』(1907年4月3日)の浪花節公演の劇評でも、

▲京山大教 御手の物の一休談なり何故さう何時も/\定り切った外題を採るのらう或は修養の足りぬ為か地声は良いが干の出ぬのが欠点である

 と嫌味を書かれている

 明治末に浪曲寄席の山本亭を買い切り、「京山亭」と改名。興行師としても活躍した。震災後は実演から一線を退き、後進の指導と寄席の経営に専念した。

 『雲右衛門以後』が出た1944年頃までは健在だったらしく、

 十餘年前、高座を退き、「浪花節お千代」にでてくる四谷四谷山本亭を、京山亭と云ふ名前に改め、自ら経営に当つてゐたが此も亦廃業し、現在はしづかに余生をたのしんでゐる。

 と〆られている。

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