夭折した新生の星・浪花亭浅造

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夭折した新生の星・浪花亭浅造

 人 物

 浪花亭なにわてい 浅造あさぞう
 ・本 名 ??
 ・生没年 1866年頃~1900年頃?
 ・出身地 ??

 来 歴

 浪花亭浅造は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。浪花亭駒吉門下の俊英として派手に売り出し、浪花亭の確立に大きな足跡を残したが、若くして病んでしまい、30代の若さで夭折したという。

 早く死んだこともあってか経歴には謎が多い。年齢は『朝日新聞』(1896年6月10日号)に掲載された記事から割り出した。曰く、

浅造(三十)の浪花節を聞きに……

 とある。

 明治10年代に入門し、駒吉について修業を行った。師匠の関東節や三味線の手を学んだという。

 1891年1月より「浪花亭浅造」として一枚看板を掲げるようになった。以来、師匠をはじめ、鼈甲斎虎丸、浪花家辰丸、美弘舎東一、春日井松之助などと並ぶ幹部となった。

 1892年の番付では、前頭三枚目。兄弟子の綱吉が前頭二枚目なのでその人気の高さがうかがえる。

 明治20年代後半~30年代初頭の人気は目覚ましく、何件も掛け持ちする程の人気を持っている。浪花亭愛造が出る以前の傑物であったようである。

 1896年、東語光の孫であった東駒丸を弟子にして「浪花亭小梅」と名付けている。この人物は長らく関東浪曲界の雄として活躍した浪華蓉峰。

 1896年6月、贔屓の芸妓ともめ事を起し、『朝日新聞』に面白おかしく書き立てられている。内容は殆ど浅造に関係ないので簡単に記すと――

 千住(現足立区) の芸者・小花 (21才) に 越谷町の藍玉商上野貞吉 (36才) が入れあげた。小花を水揚げしてめとるつもりといい、小花もその気になっていた。
ある晩、小花が遭遇したのは、同所大黒楼に貞吉が出入りするところを見てしまう。その気になっていた小花は腹を立て、自棄酒をあおる。 気分転換にと出かけた先が千住三丁目の越盛亭。かかっていたのは浪花亭浅造の浪花節。
 酒の力もあって小花と浅造は、 いい仲になる。しかし、小花は、浅造が他の芸者と仲良くしているのに嫉妬し、浅造の座敷に飛び込み、彼を罵った。 始めは黙って聴いていた浅造も、余りの剣幕に逆ギレを起こし、小花を殴りつけ、大立ち回りを見せた。小花はこの責任を取って当日の料金を払う羽目になった。

 その後も第一線で舞台に立っていたようであるが、1899年ごろを境に舞台に出なくなってしまう。間もなく没した模様か。

 駒吉が死んだ時には既に亡くなっていたらしく、『朝日新聞』(1910年11月19日号)に、

▲駒吉は豪かつた 故人の浪花亭駒吉は高座へ上ると客種をヅラリと見渡して語口を変化させて行く腕があつた随つて何れの階級の人にも可愛がられたものだが其の弟子の菊造改め駒右衛門や二代目駒吉を名乗つて改名した廬幸、故人の浅造、今の重勝でもさつぱり駄目だが峰吉が愚にも附かぬ駒吉の手振りの型を傳へてゐるのと辰雄に稍其の俤が残つてゐる位が切、故人を偲ぶ程度とは情けない

 とあるのが確認できる。

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