軍事浪曲とタイヘイトリオ・満洲日出丸

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軍事浪曲とタイヘイトリオ・満洲日出丸

 人 物

 満洲まんしゅう 日出丸ひでまる
 ・本 名 辻本 義勝
 ・生没年 1894年(?)11月2日~1977年6月23日
 ・出身地 奈良県 吉野

 来 歴

 満洲日出丸は戦前戦後活躍した浪曲師。その芸名の通り、軍事浪曲を得意とし、一時代を築いた。二人の娘は、漫才界に移籍し、「タイヘイトリオ」を結成。1950~70年代の上方漫才におけるトップスターとして活躍した。

 生年月日と本名は、「国立公文書館アジア歴史資料センター」の資料から割り出した。ただ、芝清之『浪曲人物史』の享年と違うので、本当の生年は不明。

 芝清之の調査によると、奈良県吉野の出身。大阪へ上り、京山愛昇に入門。「京山愛朝」と名乗った。この満洲日出丸、元々はケレン浪曲で人気があった京山愛昇の弟子で「京山愛朝」。師匠譲りのケレンと関西節で人気を集めるようになった。

 1928年に済南戦争(中国済南であった紛争)に従軍し、復員。この時から軍部とのつながりを持ったようである。

 1931年の満州事変前後で満洲巡業を行い、これを機に「満洲日出丸」と改名。軍事浪曲の新鋭として、大いに気を吐く事になる。

 妻の辻本とみえ(明治38年生れ)も、夫の曲師として長らく付き添っていたという。

 改名後、「満蒙事變」なる軍事浪曲速記を発売。国際日本文化研究センターがこの本を所蔵している。

 十八番には「爆弾三勇士」「第四連隊の戦地美談」「熊川少尉の戦死」「倉本大尉の戦死」「古賀連隊長の戦死」「空閑少佐」など、軍人美談であった。

 1932年には、ポリドールから『皇軍チチハル入城』『倉本大尉』を吹き込むなど、軍事浪曲の名手として独自の路線で活躍した。吉本の劇場にも出入りし、漫才師たちとも仲が良かったという。

 1935年、娘の節子が入門。朝日博子と名付け、少女浪曲師として舞台にあげた。娘と言えど、厳しく芸を仕込んだそうで、夢路は何度も泣いたという。『漫才』(第3巻第8号)に掲載された夢路の回顧談。柴田は漫才作家の柴田信子の事。

夢路 奈良の俊徳席へ満州日出丸一座が掛かっていたとき、好きで勝手に一席、浪曲を演ったんよ。
柴田 お父さんも浪曲家でしたのやろ。
夢路 その後は父についてみっちり仕込まれました。家におっても、父の部屋へ入れてもらわれへん、みな廊下で話をしたね、一般の弟子とおんなじようにナ。
柴田 きびしかったんやね。
夢路 冬でもタビをはかせてもらえんし、昔の芸人の修行はつらかったんよ

 1936年には、番付に「西4枚目 軍事浪曲」として記載されている(ワッハ上方所蔵)。

 1938年には、芦の家雁玉林田十郎鹿島洋々・深田繁子、漫談の花月亭九里丸と共に「わらわし隊」の一員として中国を巡業している。

 日本の軍国主義に従って、売れに売れたそうである。

 敗戦後、あまり活動しなくなった。戦争の反省や娘たちが売れたせいもあるのだろう。それでも戦後直後は浪曲需要もあって、

 1951年、娘の節子が、漫才師の南洋児と結婚。浪曲漫才を結成し、夢路・洋児と名乗る。

 洋児は『漫才タイヘイ戦記』の中で、「当時、住んでいた家の一階に夢路一家が、自分が二階にいたので仲良くなった」と言っているが、夢路本人は場末の小屋にいたコメディアンとできて漫才になった、ということを仰っていた。 

 1977年6月23日、83歳で死去。晩年は子供や孫に囲まれ、幸せであったと聞く。墓は大阪一心寺にあるらしい。

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