寿々木亭から東家へ・東家楽楓

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寿々木亭から東家へ・東家楽楓

 人 物

 東家 楽楓らくふう
 ・本 名 永井 亀之助
 ・生没年 1886年9月1日~1920年代?
 ・出身地 東京 八丁堀

 来 歴

 東家楽楓は戦前活躍した浪曲師。元々は寿々木亭一門の浪曲師で、天才浪曲師と謳われるほどの実力者であったが、わけあって東家楽遊一門に移籍し「東家楽楓」と改名した。

 『駄々子26号』(1915年6月1日発行)にわずかであるが経歴がある。

 東家樂楓、本名は永井亀之助、明治十九年九月京橋八丁堀に生る。二代目楽遊を師とし 越後傳吉濱野教行は上手いもんですと云ふ。 お白粉臭い物はなんでも大好きと存仰る前名寿々木亭米生。

 また、生年月日は『芸人名簿』より割り出した。

 伝承によると、元々寿々木亭小米造の弟子で、「寿々木亭米生」と名乗っていた。10代で既に天才浪曲師という形で人気を集めていたらしい。

 1906年10月『都新聞』で開催された「演芸三傑当選発表」で1万8435票を集めて、第7位。浪花亭駒吉、春日亭清吉を押さえての当選を見ると、その人気がうかがえる。

 大正初期、わけあって二代目楽遊一門に移籍し、「東家楽楓」と改名。楽遊の前読みとして、粋でイナセな浪曲を得意としたという。

 しかし、その活躍も長くはなく、昭和に改元する前に亡くなったらしい。看板の大きさの割には謎が残る不思議な存在である。

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