新物読みのわかの浦孤舟

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新物読みのわかの浦孤舟

 人 物

 わかのうら 孤舟こしゅう
 ・本 名 梶原 勇
 ・生没年 1903年1月1日~ 1980年10月25日
 ・出身地 福岡県 田川郡 上野村

 来 歴

 わかの裏孤独舟は戦前戦後活躍した浪曲師。「新講談」と称した明治~戦後の風俗や人情、逸話を描いた作品で人気を集める事となった。『わかの浦孤舟メモ』の加筆です。

 彼の経歴は、テイチク『テイチク浪曲特撰盤 わかの浦孤舟』の解説に詳しい。幸いそのレコードを持っていたので、ちゃんと明記があるよ、という意味を込めて画像を挙げておく。

画像1

 解説者は浪曲研究の第一人者、芝先生。まず信用はおける所。

 「わかの浦孤舟」について 芝清之 

 本 名 梶原 勇 明治三十六年一月一日生 

 孤舟師は、福岡県田川郡上野村の出身で、男二人兄弟の次男として育った。父親は興行に関係のある仕事をしていたが、縁あって、当時関西浪界で”新談読み”として鳴らした、京山恭為師(此の人は、本名を野手為楠と言い二代京山恭安斉門下で、小円、若丸、玉大教などと同門)の許に、7才の時に養子としてもらわれたが、実親恋しく、郷里に戻ってしまった。
 年期に至って、レコードで桃中軒雲右衛門を聴くに及んで、浪花節に興味を持ち出し、24才の時に、改めて恭為師を訪れ師弟の関係を結んだ。「京山恭高」と名乗り、27才 (昭和四年)で女流の吉田千代と知り合って結婚した。(一千代は、吉田一若後の三代奈良丸門下で活躍していた人で、17才から浪界に入っていた)
 そして、 何んとか一旗上げんと、昭和十年に上京し、芸能事務所に所属する事なく、以来四十年、独立して今日まで浪花節一筋に励んでいる。妻の一千代は上京後も女流団に加わって活躍していたが、昭和十六年に演者をやめて、孤舟師の合三味線として、これまた夫婦仲良く今日に及んでいる。
「恭高」を、 「わかの浦孤舟」と改名したのは、朝鮮へ巡業した頃 (京山円玉一座) 何か新談向きの新しい名前をと思い立ち、師の恭為が和歌山出身なので亭号とし、独り浪界の荒波を出するという意味をこめて、 「わかの浦孤舟」と命名した。孤舟師の芸は、師の恭為の芸風と同じ様に、新談読みを得意としている。

 大体の経歴はここで言い尽くされているといえる。師匠の京山恭爲についてはまた別項に記す。

 さて、わかの浦孤舟は、京山恭為の養子になったものの、離縁して、実家に戻った。

 尋常小学校卒業後、普通に働いていたが(『浪曲辞典』)、浪曲を志し、売れに売れていた元養父に弟子入り。「京山恭高」と名乗る。因みに「恭高」は、二代目恭安斎の門下にいたらしく、この孤舟は「二代目」にあたるらしい。

 長らく師匠について、全国を巡業。この辺りは全国の新聞を追わなければならないだろうが、目下はできていない。仕方ない。

 1930年に吉田一千代と結婚。以来、夫婦で活躍。

 この頃、「わかの浦孤舟」と改名。由来は「師の恭為が和歌山出身なので亭号とし、独り浪界の荒波を出するという意味をこめて」。

 改名後も「新講談」の演者として一座を転々とした。

 1932年頃、第一次上海事変の戦果を記念して、東武蔵たちと共に「満州・上海事変新浪曲公演」を持って全国を巡業した――と『萩市史』にある。この時には既に「わかの浦孤舟」名義だったようである。

 1935年、上京。以来、東京の浪曲師として活躍する事となる。ただ、京山の出だけあって、関西節であったそうである。

 以来、師匠同様に「新講談」で活躍。「日本ジゴマ」など、珍しいネタを演じた。

 1941年には妻の一千代が浪曲師を引退し、曲師に転向。以来、夫婦浪曲で堅実な歩みを進める事となる。

 1947年7月27日、NHKに出演し、浪曲を披露している。

 1947年、新日本学院に転校していた(素行不良のため)、石渡栄太郎少年と出会い、彼の美声と舞台度胸に感心し、入門を勧める。同年9月、栄太郎少年を弟子にして「わかの浦小太郎」と名付けた。

 この栄太郎少年は、「わかの浦桜丸」の名で修業をしていたが、1948年、二代目玉川勝太郎門下へ移り、「福太郎」――今日活躍する玉川奈々福氏や太福氏の大師匠にあたる三代目玉川勝太郎その人である。

 1949年10月3日、NHKより『ああ無情』を放送。『レミゼラブル』の翻案であるのは言うまでもない。

 この頃、NHKの専属となり、演芸番組に出演するようになる。

 1949年11月23日、NHKに出演。

 1950年1月16日、NHKより『軍配』を放送。

 1950年3月4日、NHKより『天下の書生』を放送。

 1950年5月8日、NHKより『解放の叫び』を放送。

 1950年8月14日、NHKより『島の俊寛』を放送。

 1950年11月8日、NHKより『伊達の道草』を放送。

 1951年3月25日、NHKより『小村侯と魚竹』を放送。

 1951年5月21日、NHKに出演して『いばらの道』なる新作を読んでいる。戦争未亡人・ひろが、悪い男や親類に騙されそうになるが遺族互助会や町内の善人に助けられ、デパートの売子として就職し、哀しみのめどをつける前の話だったらしい。

 1951年8月3日、NHKより『更生一路』を放送。

 1951年10月1日、NHKより『戦う魂』を放送。

 1951年11月13日、NHKより『鉄格子母恋歌』を放送。

 1952年5月19日、NHKより『明けゆく道』を放送。

 1953年7月10日、NHKより『孤島の鬼』を放送。

 この頃、NHKとの契約や更新で、NHK専属と距離を置くようになった模様か。ただ、NHKからの人気は高く、相変わらず出演は続けている。

 1953年、民放に参加。10月8日、日本文化放送より『涙の法廷』を口演している。

 1954年2月18日、NHKに出演し、『辛苦四十年』を放送。

 1954年3月19日、NHKより『自由豆腐』を放送。

 1954年5月19日、NHKより『銀の燭台』を放送。

 1954年10月1日、ニッポン放送より『小村寿太郎』を放送。

 1954年12月3日、ニッポン放送より『瓜生わか子』を放送。

 この頃、NHKと専属を解約し、フリーになった模様か。

 1956年5月30日、NHKより『小村寿太郎と魚竹』を放送。

 1956年11月26日、寄席読みの名人、春日清鶴と共演し、『有馬の宿』を口演している。

 以降はあまり放送に出なくなったが、浅草の木馬館や松竹演芸場を根城に活躍。新講談の姿勢を崩す事はなく、独自の新作や「乃木大将」などを得意とした。

 また高度経済成長期に「靖国神社を守った男」なる演題を発表し(東家楽浦が脚色。今もイエス玉川がやる)、ちょっとした話題となった。

 舞台は熱演型で、時には感極まって泣きながら浪曲をやる事もあったという。十八番を挙げれば「小村寿太郎と魚竹」「将軍と太平」「乃木将軍」などだろうか。吹き込まれたLPは今も時折ヤフオク!などで見かけたりする。

 1967年、「わかの浦孤舟道場」を設立。アマチュアの浪曲道場として厳しく接した。「節真似御法度・怠け者除名」と厳しいものであったが、自分自身で好きなように節が出来るために、熱狂的な好事家はよく集ったとの由(『浪曲ファン53号』)。

 1975年10月19日、木馬浪曲友の会3周年を記念して「懐かしの名浪曲を聞く会」に出席。瓢右衛門、重正、華千代、楽浦。当日、特別ゲストとして篠田実が列席している。

 大入満員を記録し、その技芸は実に見事だったらしいが、観客が年寄りばかりで若手の浪曲不信を『読売新聞』(10月25日号)の『あんぐる』の中で触れられている。

 1976年11月7日、妻で曲師の一千代こと、梶原タカエが67歳で死去(『浪曲ファン58号』)。

 1980年9月28日、国立演芸場で行われた『第26回特別企画公演 浪花節名曲撰』に出演し、「小村寿太郎と魚竹」を披露。老練な芸で喜ばせたという。この時の映像・音源は録音され、国立劇場に所蔵されている。

 しかし、この出演の直後、俄に病を得、急性肺炎で入院。1980年10月25日、急性肺炎のために息を引き取った。享年77歳。

 喜寿すぎてもなお、朗々と唸る姿にオールドファンを喜ばせ、関係者からも期待されていたが、その急逝は人々に衝撃を与えたという。事実、11月11日にも木馬亭の仕事が入っており、出演予定であった。

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