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ブリキ屋の親方・木村正行
人 物
木村 正行
・本 名 小島 智蔵
・生没年 1901年~1975年以降
・出身地 東京
来 歴
木村正行は戦前戦後活躍した浪曲師。浪曲師としてはそこまで売れる事はなかったが、ブリキ屋を経営しながら浪曲師としても活躍し、「ジキルとハイド」の異名を取った芸人であった。
生年と本名は『都新聞』(1936年12月6日号)の「昼はブリキ屋さん、夜は浪花節塾」の記事に詳しい。
昼は職人相手にポンポン、パンパンとやり夜は青年団、在郷軍人会の余興に或は本物の浪曲席に、さうでなければ家に習ひに来る弟子たちを前に「何が何して何とやら」と唸り、その昼と夜の替り方の余り鮮やかに「ジキル博士とハイド」なんていふ綽名までつけられてゐる評判の人がゐる、大森七丁目に住む小島智蔵さんがそれで芸名は木村正行、今年三十五歳、威勢のいゝ兄哥さん、AKの放送も三度に及び、更に又近くコロナレコードの専属にもなる、兎に角浪花節で一家をなせるのだから、芸人になったらよいではないかと勧める人もあるが、当人は「いやブリキ屋も却々面白いんで……」と止めさうもない
この記事には詳しい経歴も出ている。
この人、生粋の江戸ッ子で生れたのは水天宮様の近くだといひ、お定まりの子供の時から浪花節が好きで、有馬小学校に通ふ頃は、休み時間ともなれば、級友をあつめては「お粗末ながら一席……」をやって先生に叱られ、小学校を卒へて宮内省に給仕となるや、ここでも書類を片手に廊下を歩きながら「如何なりますか、又明晩……」とやるので永続きせず、向島のブリキ屋にやられたのが、今日の本業の方に入った振出しだとある、しかし一方浪曲の方の修業も怠らず、
先づ春日井派に就て修業春日井小雷丸と名乗り最初は兜町の天狗連が作ってゐた兜会といふのへ加はり、向島でも土地の連中と一座を組織してやった事もあるが、本業の方も熱心なので親方や出入先からも目を掛けられ、年期が明けた後も、昼は本業、夜は寄席などで出盛んに唸つてゐるうちに、月島の某館で故人の木村重正と相知り、一座して名を貰って木村正行と名乗る事になった、一家を持って大森に移ってからは、浪曲熱は愈々盛んにJOAKの新人放送には三度続けて選ばれて、もう新人ではなくなったし一門を率いて本格的に数人間位の短期巡業にも出るやうになった。
ただ、番付などには出てこないため謎も多い。
読み物としては師匠譲りの侠客傳「清水次郎長」「国定忠治」などを器用に読みこなしたという。
1937年1月、コロナレコードより「石松代参」を吹き込み。
1937年6月、コロナレコードより「二人忠治」を吹き込み。
1937年7月、コロナレコードより「三浦屋孫次郎」を吹き込み。
1937年8月、コロナレコードより「上州しぐれ」を吹き込み。
1938年10月、ポリドールより「忠治子守唄」を吹き込み。
戦後はなぜか信州に移住し、上信越一帯を回る地方芸人になった模様。そのかたわらで、浪曲講座をやったり、かつての板金の仕事をしてのんびり暮らしていたという。
70過ぎになったのちも健在だったそうで、1971年には友人で兄弟弟子だった木村正衛の倅、近藤美智男を預かり、浪曲師として4年間育てる事となる。
彼に「木村行友」と名付け、信州各地を連れまわして芸を磨かせ、1975年に一枚看板を挙げさせている。
1975年11月、行友名披露に列席し、浪曲を演じている所を見るとそこまでは健在だった模様である。
しかし、1982年刊行の『東西浪曲大名鑑』に名前が出ていないので、80間近で没した模様か。
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