浪曲学校卒業生・落合繁

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浪曲学校卒業生・落合繁

 人 物

 ・本 名 落合 繁?
 ・生没年 ??~1950年代初頭
 ・出身地 ??

 来 歴

 落合繁は戦前戦後活躍した浪曲師。東家楽燕が経営する日本浪曲学校の卒業生で、学校卒業生の売れっ子として堀井清水、南条文若(三波春夫)などと共にしのぎを削り合ったが、志半ばで夭折する結果となった。

 経歴等は一切不明。三波春夫等よりは年上だったというが――。

 東家楽燕主導の『浪曲学校』の一期生として入学し、堀井清水などと共に芸を磨いたという。『都新聞』(1937年6月28日号)の中に、

天下大衆の心肝に触れ、その霊魂の共鳴を呼起すものは我浪曲であると言ふ信念を常に言つてゐる楽燕が、一昨年四月日本浪曲學校を創設してから早や三年、既に四十名の卒業生を出した今日、堂々と東京劇場に出演廿七、八両日昼夜四回(判別不能)を持つた事は楽燕の(判別不能)と言つてよからう、日本浪曲學校を始めたのは、要するに若手浪曲家の正しい教育がなくてはその将来性がないと見込んでの事であつた、そして學校制度による科學的教育の下に、彼の所謂天才教育を實行してきたわけである、自分の興行を半減してもと、飛び入り公演などをやらせて天才發見につとめ、殆どその私財を投じて万全に期したなどの佳話を持つ程楽燕の熱の入れ方は非常なものであつた廿七日の公演會第一日は流石に大入満員で、晝よる二回共に東劇を大入りにしたのは當然とは言へ賞められてよからう、観客も新しい時代層を作るものと言はうか、學生や若婦人連の多かつた事は、斯界人の注目してよい點である、楽燕はこの日迄静岡縣下に出演中の處稽古指導暇を見ては上京した程、今度の大公演會には嬉しさを抑へられず自動車を飛ばして上京、やつと自分の出番迄に劇場へ来て、流石満員の盛況を喜んでゐた
出演中の卒業生も色々な階級人がゐるのも面白く、朱雀道子は未だ女學生であり乍ら堂々熱演振りで、有望さを見せてゐた、廿七日の岡野金右衛門、大石山鹿護送を演じる落合繁、雲芳雄は何れも師匠十八番物をやるので、非常なハリキリ方だつた、尚廿八日の晝の部の梶川三兵衛も、校長楽燕の得意物で、これをやる北原白峰はまだ一中學生であるなど、今度の公演は愛好者のみならず浪曲界そのものの前途に一つの若々しい光彩を投ずると言つてもよからう、尚楽燕は廿八日の晝赤穂義士外伝、夜召集令の二番をやつてゐる【寫眞上は出演者卒業の挨拶、前が室渓水師、下は堀井清水の口演】

 と、熱演している彼の様子が確認できる。

 その後は一期生の雲井芳雄、堀井清水、朱雀道子などと共に「学生浪曲師」として売り出され、相応の小屋にも出演できるようになった。

 1938年8月17日には、同期の北原白峰と前後してJOAKに出演、軍事浪曲の「誉れの飯田山」を口演している。

 その後も順調に売り出し、1943年の番付では「新進幹部」として登録されている。

 戦後も活動していたようであるが間もなく病気に倒れたらしく、1950年代に夭折した模様。

 1957年に出された『浪花節一代』の中にある雲井芳雄の記事によると「同輩の落合繁くんは亡くなって……」とある。

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