港家宗家・港家大夢

浪曲ブラブラ

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港家宗家・港家大夢

 人 物

 港家みなとや 大夢だいむ
 ・本 名 岩根 政太郎
 ・生没年 1868年6月30日~1923年冬?
 ・出身地 静岡県 見付町

 来 歴

 港家小柳丸、港家小柳などを輩出した「港家」の流祖。浪花節黎明期から大正にかけて活躍した。

『芸人名簿』によると「明治元年六月三十日生」。本名もここから割り出した。

 経歴は意外や意外、ハワイの新聞『日布時事』(1915年2月11日号)に談話が出ていた。当人が語る経歴なので信憑性がありそうな。面白いので原文ママ。

父は加州の分家越中富山城松平主計頭利由藩鯉次郎政光、王政維新に国を離れ遠州見付町の商家岩根家へ婿養子となり長男政太郎次男鶴吉即ち長男政太郎が私で御座います、十八才まで学問をしてそれから両国文蝶の弟子となり政吉と名乗り廿二才に真打ちに列し弟子を持つ身となり廿四才に三河家梅車の養子となり二代目梅車と改める、廿七才縁なくして離縁となり師の文蝶の許しを得て始めて港家一派を起し港家扇蝶と改むる、廿九才で横浜の両国亭を始め引続き東京へ乗り込みいたるところ人気あつて今日まで約二十年間浪花節で渡世して居ります

 まさか藩士の倅とは思わなかった。藩士の倅が当時最下層であった浪花節語りになった事を親はどう思った事だろうか。幼いころうけた教育は、結構役に立ったらしく浪花節向上の一役を担う事となった。

 師匠の文蝶とは、武蔵家文蝶の事。両国文蝶とあるのはどうしてだろうか。この人は浪花節以前に活躍した一人であった。

 養子先の三河家梅車は当時の浪花節界の大御所的存在で、人気も実力も高かった。

 この人の一座にいたのが吉川繁吉という浪曲師で、当時梅車の酒乱や指導でいじめられていたお浜と出来てしまった。梅車の怒りを背に二人は駆け落ちし、九州で一から再スタートを切った。誰でもない桃中軒雲右衛門その人である。

 1892年頃、梅車の養子に入って二代目を継いだとは知らなかった。この時、梅車は「三河家一」と改名した。

 しかし、梅車は酒乱の気があり、晩年は悲惨だったことから間もなく縁が切れる所となった模様である。

 その後、文蝶門下に戻り、「港家扇蝶」と改名。師匠から一文字貰った模様か。以来、本格的に東京へ乗り込み、一枚看板として君臨する事となる。

 色々な芸人を師事しただけあってか、迫力と薀蓄のある芸の持主だったそうで、『魚屋本多』『野狐三次』『忠臣蔵』『太閤記』『曽我物語』『加賀騒動』など色々な演目を演じる事が出来た。港家の隆盛を一代で築き上げたのも、こうした芸のお陰であろう。

 一方、『天鼓』(1906年2月号)の批評の中では、

▲湊家扇蝶 上方節中の大看板也、然り看板だけ大きいの也。

 と嫌味を書かれている。どう解釈すればいいものか。

 後年、岩根サク(1873年3月11日~)と結婚し、「港家小富」という名前で曲師をやらせた。

 東京進出後は、浪花節黎明期における第一線として各地で活躍をした。門弟150人とうたわれるほどの一門を築いたそうで、小扇次、柳蝶、柳子などがいた。孫弟子には、堺正章のおじ・港家小柳丸がいる。

 また、四谷に居を構え、仕事で得た蓄財で寄席を建て、「大扇亭」として開場。初期の浪曲専門小屋として機能する事となる。

 頭がよく、芸も上手かった所から、多くの高官や贔屓に恵まれた。その一人が、明治の元勲・樺山資紀伯爵(作家・白洲雅子の祖父)であったというのだから驚きである。

 1909年11月、樺山から「大夢」の雅号を譲り受け、これを芸名にした。さらに後継者として、筋の良かった小扇次を指名し、大扇亭で襲名披露を行う事となった。

『朝日新聞』(1909年11月2日号)の告知欄に、

●扇蝶の名披露目會 港家扇蝶は門人小扇次に二代目を譲り樺山将軍の選名により大夢と名乗り昨日より三日間毎日午前十時半より四谷船町大扇亭にて関東関西連合大演藝會を催し尚一日より向十五日毎夜大扇亭及小石川石切橋扇亭似て披露興行を為す由

 とあるのが確認出来る。以降は、出演数を減らし、寄席席亭「港家大夢」として経営と後進の指導に励む事となった。もっともやめたわけではないので、舞台には一応出ている。

 四谷という立地の良さもあってか、相当の名門劇場へと育て上げたらしく、玉川勝太郎の『玉川亭』(玉川が近くにあった所から)、末廣亭清風の『末廣亭』(今の新宿末廣亭の前身)と並び称されたらしい。『朝日新聞』(1910年11月20日号)に、 

▲三百人近くの真打 浪花節の真打は三百人近くもゐるが其内持席は大夢の大仙、大教の京山、清風の末廣、辰燕の小石川、三叟の三燕、勝太郎の玉川位なもので……

 とある。この寄席で修業をした芸人も多かった。

 1915年、ハワイの興行師に頼まれてハワイ行を決意する。妻の小富、弟子の若蝶、柳子の四人で一座を結成。同年1月29日、横浜港から客船に乗り、ハワイへ向かった。

 2月9日、到着し、15日よりハワイ巡業を始めた。叩き上げた芸と話術で、ハワイ在住の日本人や日系人を喜ばせたという。この辺りの話は、当地の新聞に詳しく出ている。

 同年6月5日、ハワイを出港し、アメリカ合衆国本土まで足を延ばし、サンフランシスコに上陸している。

 サンフランシスコ、ワイオミング州、コロラド州などの各地を巡業し、ユタ州に入って間もなく、1916年を迎えた。1年近くアメリカで巡業する人も珍しい。

 1916年8月まで連続してアメリカで打ち通し続け、その年に帰国した模様。随分の長旅である。

 その後は、上京してきた京山愛子の売り出しに尽力した。

 1919年、京山愛子と共にハワイへ巡業。京山愛子の後見として枯淡の芸を見せた。

 梅中軒鶯童によると、大正12年頃に没したらしい。江口鉱三郎『おなじみ浪曲集』では「震災後病を得て六十三才で没した」とある。1923年の冬頃に亡くなった模様か。

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