落語・虎の尾

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虎の尾

 郊外にでかけた男、ある家を尋ねる。
「こんにちは、こんにちは。ちょっとお伺いしますが……」
 ふと見ると家の鍵を開けっ放しでその家の住人たちが居眠りをしている。
「驚いたねどうも、案内をしてもらいたいものがここにいるんだが……いくら郊外だからって呑気すぎやしませんか。犬でも飼ったらどんなもんです。もし、ごめんください」
 いつまで経っても返事がない。しかし、この男も男で「いよいよ誰もいなけりゃ御免被る」などと嘯きながら、家の中に上がり込んでしまった。
 部屋を覗いていくうちに、奥の洋間で雑誌を読んでいる男と目が合う。年の頃なら四十五、六。でっぷり太った貫禄ある主人である。
 主人は家の中に上がり込んできた変な男に驚いて、
「誰だい、君は。ついぞあった事がない」
 と不思議がると、男はさも旧友のような口調で語りかけてくる。
 そんな男の話しぶりを聞いているうち、主人は「自分が忘れてるだけではないか?」と疑心暗鬼になっていく。
 男は相変わらず気安い素振りをみせながら、洋間においてあるウイスキーや日本酒を遠慮なく飲み始める。
 さらに、洋服棚を見て「これはあなたの洋服ですか。立派なもんですね」と勝手に着込み始める。
 主人は相変わらず疑心暗鬼に悩みながらも、男の陽気な振る舞いを前に心が緩み始める。
「君誰だっけ?」
「そんなことはどうでもいいじゃあありませんか」
「それもそうか。直に妻が稽古から帰ってくる。そしたら勧進帳を聞かせてやろう」
 と、和気あいあい。
 そのうち、妻と下女のお鍋が帰ってくる。
「昔の友達だ」
 と紹介された妻、丁重なもてなしをし、自慢の三味線で勧進帳を弾き始め、旦那もこれにつられて歌い始める。
 男はその三味線と歌を褒めながら、勧進帳のウンチクやら話をして夫婦を喜ばせる。
 そして、最後の段にかかると、
「私の着物を衣装にして、ステッキを金剛杖、数珠は奥様の帯留め……」
 と、金品を手にして弁慶よろしく見得を始めたが、それと同時に飛び六法を踏んで家から飛び出してしまった。
 しかし夫婦はいい心持ちで勧進帳を歌っているので気が付かない。
 演奏が終わると件の男がいない。お鍋に聞くと「お帰りになられましたが」という。
 そこへ電話がかかってくる。受話器を取ると件の男、
「先程はどうも。実はあっしはあなたの友達ではありません。空き巣狙いです。へへ、ではサヨナラ」
 と飛んだ電話をかけてくる。
 まんまと一杯食わされた夫婦、地団駄を踏むがもう遅い。
「畜生、泥棒だったのか」
「あなたのお友達とばかり……しかしものしりなやつでしたね」

「うむ、大方それも空き巣で稼いだのだろう」

『読売新聞』(1934年4月30日号)

 ラジオの企画で、劇作家の田村西男が新作を作り、それを七代目林家正蔵が演じたもの。作者の田村西男は、昭和を代表する女優・田村秋子の父親だったりする。今日ではその方面で名が残っているようであるよ。

 当時の郊外に住む成金と、社会問題になっていた空き巣をうまく取り入れている。ある意味では、昭和一桁のハイカラな世界観を描き出しているというべきだろうか。

 しかし、面白いかといわれると――この田村西男という人は、新作落語の創作よりも編纂や解説の方に向いていたきらいがあり、そこまで面白いとは思わないのである。

 明治以来の古株でこそあるが、落語創作の才能が優れていたとも思わない。もっとも、普通の小説や随筆の類はそこそこ読めるものが多く、全く実力がないというわけではない。「作家ではあったが、落語作家としては」という評価に収まるのかもしれない。

 このような事を言うのもなんだが、岡鬼太郎や今村信雄などと比べると作品としてのインパクトが欠ける。

 この落語もそうで、空き巣が入り込むのは判るが、いくら昭和の御世でもすさまじく不用心であるし、「勧進帳」に熱中して相手を取り逃すなど――とはちょっと虫が良すぎるのではなかろうか。

 昭和の世俗というものはそこそこ書き出せているが、所詮は一過性のネタであろう。今やった所で面白いとも思えないのではない――というのが結論である。

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