美貌美声の天中軒月子(初代)

浪曲を彩った人々

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美貌美声の天中軒月子(初代)

 人 物

 天中軒てんちゅうけん 月子つきこ(初代)
 ・本 名 野村 都
 ・生没年 1902年~戦後?
 ・出身地 東京 浅草

 来 歴

 天中軒月子は戦前活躍した女流浪曲師。初代天中軒雲月の弟子として売り出し、日本人形のような美貌と陶酔させる美声で一時代を築き、女流浪曲の大幹部として君臨した。

 経歴は、『レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版』に詳しい。

 本名野村都、浅草向柳原町に生る。十三歳の時故吉田虎衛につき修業、翌年吉田都の芸名にて舞台に立ち同年日活映画会社余興専属となり、十七歳にして初代天中軒雲月の門に入り天中軒月子と名乗り現在に至る。

 生年等は資料によってまちまちなのが欠点である。『日布時事』(1932年9月11日号)の人物紹介では――

座長 天中軒月子 
本名野村都 
明治三六年生 
尋常小学校優等卒業、十三歳にして天中軒雲月師に入門、二十歳の時に師雲月より知友東京大谷興行会社へ預けられ女流団初音会の座長として市村座にて旗揚興業大成功浪曲流行時代の事とて忽ち月子の名は全国好浪家の垂涎の的と成り斯界の第一人者と成る同時に大谷興行会社の手にて全国巡業を終へて其後独立一座を組織関東女流浪界の大立物として天才的美音の持主であると好評

 とあるのだが、その後に出た広告の写真では「明治35年」とあり、ややこしい事この上ない。

 また、一部文献では二代目雲月こと伊丹秀子の弟子のように扱われているのがあるが、実際は初代雲月の弟子であることは間違いない。

 個人的には『レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版』の経歴の方を取る。

 昭和に入り、東京へやって来て一枚看板で売り出す。

 師匠譲りの「義士伝」を主に語ったほか、余興で都々逸や小唄端唄、流行歌を面白おかしく唄うので人気があったという。「義士伝」の通しを基本的に得意としたが、「石童丸」「別れのおけさ」

 1925年12月、ツルレコードより「大石山鹿護送」を発売。

 1929年2月、ツルレコードより「倉橋伝助」を発売。

 1930年7月、オデオンレコードより「倉橋伝助」を発売。

 1930年10月、オリエントより「安兵衛婿入り」を発売。オデオンレコードより「神崎少年時代」を発売。

 1931年の番付では、西方前頭筆頭。

 1932年9月、ハワイの興行師・村井吉山に誘われ、天中軒月子一座を結成。前田八重子を副将に、前田節子、前田日米子の女流一座を組んだ。

 この一座は相当に売れたそうで、当地ではアイドルのような歓待を受けたという。現地では「神崎東くだり」「天野屋利兵衛」「安兵衛婿入り」「山鹿護送」といった義士伝の他、余興で民謡や小唄を唄っている。

 1932年12月、タイヘイより「山内一豊の妻」を発売。

 1933年9月、太陽レコードより「村上喜剣」を発売。

 1935年の番付では、西方前頭二枚目。

 1938年2月、ポリドールより「博多情話」を発売。

 1938年の番付では「女流大幹部」。

 1943年の番付までその存在が確認できるが、1950年の番付ではなぜか出て来なくなる。引退した模様である。

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