浪曲界の出版王・島津三蔵

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浪曲界の出版王・島津三蔵

ありし日の浪曲光栄社

 人 物

 島津しまづ 三蔵さんぞう
 ・本 名 北野 竹治
 ・生没年 1895年7月21日~戦後?
 ・出身地 奈良県

 来 歴

 島津三蔵は戦前活躍した浪曲師・浪曲ジャーナリスト。元々は親友協会の浪曲師であったが、思う所あって実業家に転向。「浪界新聞」を立ち上げて番付を作成するなど、戦前の浪曲出版に大きな影響力を持ったという。

 経歴は『レコード音楽技芸家銘鑑』に掲載されていた。

 本名北野竹治、明治二十八年七月二十一日奈良県生。十六歳にして浪界に身を投じ大阪親友派に十五ヶ年、其後大正十三年に上京し、昭和四年一月第日本浪曲光栄者を創立、同時に東京浪曲新聞及浪界一般の出版物を刊行し、目下光栄社附属事業として浪曲研究所を公開、今より十年後の浪曲の世界を目指して新人の養成に努力しつゝあり。

 また、『大衆人事緑14篇』の中にも以下のような事が書いてあった。

島津三蔵 大日本浪曲光榮長 浪曲新人研究所長 出版業 淺草區松葉町五七 淺草九二三九 〔略歴〕本名を北野竹治と稱す明治廿八年七月廿一日生る夙に浪曲界に入り斯業習得 昭和四年獨立創業す 宗教眞宗 趣味 藝術旅行撞球相撲〔家庭〕妻三千代(明二七)菅野己六長女 嗣子雅嗣(昭十) 長女数枝(昭八) 二女千鶴子(昭一二)

 師匠系統などは不明であるが、親友協会では相応の権威を持っていたらしい。

 現に1924年の『浪花節名鑑』では「親友派青年部部長」として紹介されている様子が確認できる。

 関東大震災後、思う所あって東京へ移籍。島津三蔵の名前で各寄席に出ていたが、1929年に浪曲界から足を洗い、浪曲ジャーナリストへと転じた。

 最後の舞台は1928年10月、新富演芸場のようである。

 一線を退いた後は浪曲光栄社を設立し、番付や記事を作成する傍ら、「浪曲新人研究会」なる教室を立ち上げ、浪曲学校というべきような代物を作り上げた。

『実録浪曲史』によると、夜の貸席を借りてコンクールや講座を行っていたようで、天狗連ならぬ「蝙蝠連」とあだ名されたという。

 大正から昭和にかけ、東京では寄席の余一(月末の休館日)や休日の銭湯、さらに貸席を借り切って天狗連が集まり、各所でのど自慢を行った。島津三蔵の浪曲三光栄社が浅草の金車でコンクールを行ったのもその一例である。昼間は定職を持ち、夜は飛び歩くので蝙蝠連などともいった。

 なお、この学校からは、五月一朗門下として堅実な活躍を見せた五月二朗などが出ている。しかし、著名な卒業生がいないせいか、東家楽燕の浪曲学校に比べると地味な印象がある。

 1941年を持って番付の統制を受けるようになり、以来自社で出す事はなくなった。一応、「浪界新聞」などは出せたと見えて、光栄社自身は続けられた。

 しかし、その後も統制は続けられ、「浪界新聞」も廃刊。いつしか浪曲界から消えてしまった。

 風の噂では戦後までいたそうであるがハッキリとしたことはわからない。

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