寿々木一門の源流・寿々木亭米造(初代)

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寿々木一門の源流・寿々木亭米造(初代)

 人 物

 寿々木亭すずきてい 米造よねぞう
 ・本 名 野上 長作
 ・生没年 1861年~1903年
 ・出身地 新潟県 曽野木村

 来 歴

 寿々木亭米造(初代)は浪曲黎明期に活躍した浪曲師。佐渡情話で一世を風靡した寿々木米若は実の甥にあたる。関東節の完成に力を注ぎ、寿々木亭一門を形成する程の人気を集めたが、浪曲ブーム直前で倒れ、夭折を遂げた。

 生没年は中村定治『叙事詩考 叙事曲論』に依った。信憑性は微妙な所である。本名は『東京明覧』より。

 『月刊浪曲』(1987年9月号)の米若夫人・藤田延子が語った所によると「初代米造という人は、米若の父親の兄さんなの、父親には兄弟が4人いて、一番長兄が米造、その下が女で父親の松三郎という人は次男、一番下の弟も越造といって浪花節だったわね。」との由。

 実家は農家であったが、長作は農業よりもチョンガレを好み、旅回りのチョンガレ語りをやるようになる。その内、上京して中川末吉の弟子になる。

 経歴は正岡容『日本浪曲史』にあるが、信憑性は微妙。

 前掲の中川清丸がのちに初代の寿々木亭米造を名乗る。
 寿々木亭派の開祖である。 
 小島亭といい、寿々木亭といい、中川派は関東節には因縁深いと深いものと言えよう。
 そば屋の出前持から身を起こした清丸の初代米造はいたって喧嘩早く、また勝負事に惑溺する男で、そうした気性のあらわれか、剣の峰を喰わすようなブッキラ棒な節で、しかも面白いことに、
〽何々を言上(ごじょと必ず発音したそうである)奉る……
 と言ったすぐあとへ、
 〽サッサこれから読み奉る…………
 と、必ず冠せてから歌ったそうな。 「国定忠次」「仙石騒動」など、駒吉系の読物が多かった。
 この人の弟子に小米造とて目の悪い節読みがいたがこれが二代目を襲いで、早世。その小米造の弟子の二代目小米造が、馬生から三代目米造となった。

 蕎麦の出前持ちとかは、修行の傍らでやっていたのだろうか。謎は多く残る。

 浪曲黎明期に活躍し、関東節完成に大きな足跡を残した。粋で艶な節と啖呵で、浪花亭駒吉、小島亭徳三郎、鼈甲斎虎丸、八木亭清歌といった大看板としのぎを削り合った。

 明治20年代よりぼつぼつ発行され始めた浪花節番付では、小結・大関などを獲得する程の人気っぷりで、「中川清丸」の名声は日に日に高まって行った。

 しかし、わけあって師匠の中川末吉と袂を分かち、独立をする事となった。理由は不明である。

 1892年11月16日より芝金杉せんば亭で「中川清丸改め寿々喜亭米造」襲名披露公演を実施。これを機に「寿々喜亭」と名を改めた。

 1901年には贔屓を恐喝した咎で新聞沙汰になっている。『朝日新聞』(1901年2月6日号)に詳細が出ているので引用しよう。

●妾と共謀の脅迫取財 本所区南二葉町二番町大工棟梁小林文吉(三十二)といふハ浪花節道楽の男として日頃より同区柳澤二丁目五番地に住む浪花節語り大米造事野口長治(三十八)方に出入なし別懇になし居たりしが去丗一日同人ハ例の如く大米造方へ赴き弟子清丸を引連れて同区松井町二丁目の牛肉店塚松屋に至り飲食なし居たるところへ大米造の妾同区緑町二丁目の加藤おさく(三十二)といふが来り一座となりて再び飲み食ひをなし午後十一時半頃に及び打連れて同店を立ち出でしが文吉ハ十二分に酔ひ痴れたる事とて前後不覚の為体なりしをおさくハ其儘緑町の自宅へ連れゆき三畳の小座敷へ寝させしも文吉ハ一向知らず高鼾にてうまいなし翌午前一時頃になりけるがふと同人を揺り起す者あるに打驚きて眼を開けバ例の大米造咥へ煙管の大胡座にて文吉ねめ附けおい棟梁そんなに胆を潰さずとも斯う有休に見付けた上ハ是非もなせねへから覚悟しなせえと乙な文句を並べて脅迫するに同人の驚きハ大方ならず種々弁解なしたるが大米造は一向に聞分けぬのみか側なるおさくへ両眼に涙を携へて文吉に打向ひ斯うなれバ白状したが互の為め実ハ去年の夏以来の関係ですと悪く落付いて罪を伏したる有様に文吉は愈々困りさてハ共謀の悪計に係りしかと口惜しく思へど今更に及ばず遂に夜明まで猶予を乞ひやがて朝早く同家を立出で小米造の家へ赴きしに大米造を始め清丸等来りて口々に罵詈を加へ示談金百円を出せと脅したるにぞ文吉ハ当惑し同町十三番地の喧嘩勝事戸川勝太郎の仲裁を乞ひて五十円に話をつけ其場ハこれにて事済みとなりしも済まぬは文吉の胸の内にて無念の遣る方なきに一昨日右の次第を本所署へ訴へ出たれバ前記一同ハ引致となり目下取調を受け居れりといふ

 その後、米造は不法侵入罪の咎で懲役5日の罪を命じられた。

 その後も一枚看板として、各寄席を巡り高い人気を誇っていたが、浪花節ブーム目前で倒れ、40代の男盛りで死んだ。

 一説によると北海道巡業中に病に倒れ、そのまま亡くなったという。

 弟の松三郎は、兄が立派な芸を持ちながらも夭折してしまった事を思い出しては「兄貴の存命中は寿々喜亭米造は押しも押されもせぬ一流どころ、大関より下った事はなかった」と、古い番付を見ては泣いていたという。

 その遺志を継いだのが松三郎の息子で、米造の甥・野上松平こと寿々木米若であった。

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