品行方正な律義者・日吉川貞水

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品行方正な律義者・日吉川貞水

 人 物

 日吉川ひよしがわ 貞水ていすい
 ・本 名 田口 由苗
 ・生没年 1888年~1932年
 ・出身地 兵庫県 三日月村

 来 歴

 日吉川貞水は戦前活躍した浪曲師。日吉川という屋号の通り、日吉川秋水の弟子であったが、元々は旅回りの士道南水の弟子で、士道の名前を義理がたく名乗っていた。秋水門下に移るにあたり「日吉川貞水」と改名した。品行方正な人物であったという。

 経歴は『浪花節名鑑』に詳しい。

 氏は明治廿一年播州三ケ月備後国産畳表卸商に生る、幼少の頃より浪花節を好み稼業も手に附かず親の意見も馬耳東風、親も其熱心なるに感じ九州地方にて人気を取りし士道南水が姫路興行中同師の門に入れ日夜勉励中師南水故人となりしため素人天狗連を前座に致し、師の恩を忘れぬため士道を名乗り、士道貞水として中国地方を巡業し居たりしが、はからずも親友派の花形日吉川秋水が和歌山弁天座に開演中に見出され日吉川一行に加わり大阪に来り親友は各席に出演し士道貞水の名は次第に知られ、日吉川出演せば必ず貞水同行し人気は次第に盛となり、若手ながら品行方正にて座元の信用あつく前途有望の青年なり

 因みに、1914年の『浪花節名鑑』では「士道貞水」として登録されている。10年間の間で改名した模様か。

 長らく旅回りで暮らしていた事もあってか、持ちネタを相当持っていた。苦労人だった事もあり、非常に優しい人物だったそうで、品行方正で律儀な性格は周りから慕われた。

『千両幟』『国定忠治』『梅が枝』『吉原百人斬り』『太閤記』などを十八番にした。長講も得意で、けれんも得意とした。

 声が大きく、立派な芸格だった関係もあり、早くからレコード会社と嘱託を結んだ。梅中軒鶯童によると内外レコードと契約を組んでいたらしい。ただ、その内外レコードがあまり残っていないので全貌をつかむのは難しい。

 専属になった後も検挙で律儀な姿勢を忘れることなく、困っている仲間がいるとレコード会社に紹介するという優しい人物であった。鶯童もその一人で、

西宮の今津にあった内外レコード、後のタイヘイレコード、現在のマーキュリ、日吉川貞水君がこの会社の嘱託となって浪花節の吹込を斡旋していた。話があってテストに行ったが、駄目だった。理由は小音なるが故、当時はまだ蝋管の機械吹込みだったから小音の者は不利だった。

 と、回顧している。ちなみに電気吹き込みが生まれた後、「鶯童君にいいようなレコードが出来た」と内外レコードを再び斡旋し、紹介してくれた。今度は電気吹き込みのおかげでテストに合格し、鶯童は出世のいとぐちをつかむきっかけとなった。

 こうした律義さに加え、芸も真面目、立派な芸を持っていた関係もあって、30代にして早くも評議員に任命されている。

 1925年7月、内外レコードから「梅が枝手水鉢」を発売。

 同年、師匠の秋水が死去。これを機に本格的に独立し、日吉川家の大名題となった。

 1925年冬のラジオ開設に伴い、ラジオにも率先して出演。

 1927年12月30日、JOBKの「青年浪花節の夕」に出演。「太閤記」を口演している。共演は京山愛駒「吃の又平」、雲井一声「伊井直人」、宮川楽風「斎藤内蔵之助」、広沢虎遊「松平糸若丸」。

 1929年8月14日、JOBKに出演、「寛永御前試合」を口演。

 1930年3月12、13日、広島放送に出演し、「伊井直人」を二夜口演。

 1931年12月27日、JOBKの「浪花節大会」に出席。「南部龍之助」を口演している。共演は京山雪州「文明開化亀遊物語」、岡本鶴圓「合邦辻」、桃山神風「伊達白黒論」、広沢篁州「島田二等兵」、京山愛昇「貴田孫兵衛」。

 1932年3月6、7日、広島放送に出演し、「花篭長次郎」を二夜口演。

 これからという矢先、倒れて死去。鶯童『浪曲旅芸人』によると、「昭和7年没」。死ぬ年までラジオに出ているので急死に近かったのかもしれない。

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