お相撲贔屓の木村重浦

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お相撲贔屓の木村重浦

 人 物

 木村きむら 重浦しげうら
 ・本 名 須賀 友次郎
 ・生没年 1895年5月~1968年5月7日
 ・出身地 東京 葛西

 来 歴

 木村重浦は戦前活躍した浪曲師。小粋な関東節と見事な啖呵ですさまじい人気を集めたが、底抜けた相撲贔屓や諸事情で遂に表舞台から消えてしまった。妻は木村八重子という三味線の名人。八重子の兄は木村重松であった。

 『浪曲ファン』(1975年6月号)の中に、倅の林小伯猿が『父・重浦』と題して、重浦の人となりを書いている。

 父・木村重浦の従兄に雷ヶ浦喜太郎という力士がいました。この人は前頭幕尻で、日清戦争で足を怪我して引退、若者頭の筆頭をつとめ、出羽の海部屋中興の祖といわれました。名横綱常陸山谷右衛門の右腕となって、今日の伝統的なハズ押し、肩すかし、出し投げなどの妙技を残した功績は有名で、雷ヶ浦が仕込んだ力士は運よく皆、名力士になりました。
 出羽海部屋は栃木山、常ノ花、常陸岩、新海、福柳、一時は西方で横綱から幕尻まで全部、同部屋で占めたことがありました。そんな関係で父も浪曲入りの前、出羽海へ入門しました(栃木山よりも十日ほど兄弟子)が、背が低いので、常陸山親方に
「友、お前は浪花節がうまいんだから、浪花節になれ」
 といわれ、あきらめて木村重正師に入門しました。東京湾のノリ採りで沖へ行き、喉を鍛えていたこともあり、数か月で一躍人気者になり、十九歳で二軒バネ、三軒バネ(かけもち)の真打ちになったといいます。浪界も黄金時代だったし、運もよかったんですね。


 栃木山の入門が1910年なので、16歳の時に弟子入りしたのであろう。ちなみに実家は葛西の海苔問屋であったという。

 すぐさま浪花節に転向したそうなので、明治末の入門とみていいだろう。木村重正に入門。「木村重浦」と命名された。

 塩枯れ声で脱線を繰り広げる師匠の重正とは打って変わって、線の細い、いぶし銀のような関東節、それに見事な啖呵を繰り広げた。

『日本銀次』『相馬大作』『寛政五人男』『祐天吉松』『国定忠治』など威勢のいい話を得意とし、そのうまさ、粋さにうるさ型の観客は感涙にむせび、浦安や下町の客も重浦が来ると熱狂したというのだから大したものである。

 1915年、木村重松の妹で曲師の木村八重子と結婚。この関係から木村重松とは義兄弟となった。

 1917年3月、長男の伝次郎が誕生。この子は後に浪曲師となり、林小伯猿と名乗ったが、戦後に廃業をして妻の日の本さくらのマネージャーになった。

 義兄と妻に恵まれ、さらに8人の子どもを授かった。重松の後ろ盾を得、間違いなく木村派の大名人と期待されたが、その期待とは裏腹にポシャってしまった。

 その背景には相撲道楽と当人の底抜けた道楽振りがあったという。

 二十一の時、十七歳の母(曲師・木村八重子)と結婚し四男四女を設けましたが、芸人になったのは私(講談の山陽門から林伯猿門に)と曲師の妹英子だけでした。
 父・重浦は常陸岩英太郎と兄弟のようにしていましたので、大相撲の場所中は寄席もそっち退けで、砂カブリに詰め切りでした。そのため、ずい分と母に迷惑をかけたようです。 

 また、『浪曲家の生活』の中で、妻の八重子は相撲道楽のひどさを、

角力にこって芸に身が入らず、兄の長屋を潰して土俵を作り、弟子も総出で本式に廻しを締め、各々角力名をつけて兄は朝汐重松、私の亭主重浦が栃木浦、次兄の小重松が三保の松、二代目重松が小両国、浪花節はそっちのけで毎日角力ばかりとって、場所が始まれば寄席も休んで国技館通い……

 といい、『浪曲ファン11号』の中では、妻として重浦のひどさを散々零している。

――ご亭主の重浦さんという人の人となりなどについて
 木村 これは大変な道楽者でしてね。関東大震災の前後でしたか。小田原の旅先でひいきに誘われたって旅館から出て行ったきり帰ってきゃあしない。楽屋にはお客さんもきているしね。それで翌日、二宮に行っているらしいっていうので案内して貰って行ったわよ。
 そしたら、女はいなかったけど、枕元の衣に女物の着物なんかあってね。何より証拠は枕元にツゲの柵が落ちていたんだ。女の枕もあってわたしはそのマクラでブン殴ってやった。「なにすんだよ」なんて言っているから「旅先でまで恥をかかすことないだろう」 って、主人ばかりか案内してくれた事務員や興行師までで殴ってさ、持って行った日傘をこわしちまったことがあったよ。
 まだあんのよ。平塚に三ちゃんという親分がいてね。とても重浦のファンで、何時も大騒ぎしてくれるんで、あたしたちもノンビリしてしまうんだけどね。この時「お客さま」 っていうんで、あたしは子どもにお乳をやっていたから「あんた行ってきなよ」って 「行かせたら、そのまま二十日も帰ってきやしないんだ。一ト月くらい帰ってこないことなんかザラなんだ。だから、あたしが稼がなけりゃならなかったんだ。
――なるほど、ご亭主は仕事をしないんですね
 木村 ええ。それに相撲が好きでね。相撲中は寄席に出やしない。だから、その間は仕事はとるなって云ってやったの。だって先方に迷惑かけるものね。あんた、仕事のたんびに国技館中を捜す始末なんだよ。捜し出して相撲親方の前で引っ叩いたり、ひっかいたりしてやるの。「オレはこれだから嫌になる」なんていってたけど「あんたがまいた種じゃないか」ってね。
 それからかなんかでパッタリ会うと逃げちゃうんだよ。
 多勢つれて飲み食いなんだよ。木更津じゃついに無銭飲食で二十九日も拘留されてね。 ヒゲを伸ばしてさ。シラミだらけで夜コッソリ帰ってきたよ

 一方、倅の林小伯猿は人気を失った理由を「事業で失敗した」と論じている。

 いろいろとエピソードの多い父ですが、折角の人気をよそに、節をやる気を失くしたのは山師に騙まされてからでした。 
 伊豆熱川にある金山を、金の含有量十分の一といわれ、常陸岩と共同で昭和の初期三十万円で買ったのですが、実際はその山は含有量二十分の一でした。父は金山に夢中になり、一切を山に注ぎ込んだのでしたが、運転資金が続かず、中途で破産してしまい、根津嘉一郎さんの持越金山に五万円で権利を売りました。でもたくさんの負債が残り、差し押えを食ったりとんだ憂き目をみたことがあります。それから父は全然芸に身を入れず、飲んでばかりいたようです。母の三味線一丁で立直って行った始末でした。 

 それでも一応ラジオやレコード吹込みはしている。

 ただ、ラジオ出演などは既に情熱を失っていたらしく、放送日になっても重浦が来ないどころか代理を立てて来た。局員が探し当てると泥酔していた。「どうして来ないのか」と怒ると、重浦は「べらぼうめ、代理を送るだけマシだ、寄席なら全部抜く」と放言して局員をあきれさせた――と正岡容の本の中にある。

 1928年3月、末娘の英子が誕生。この子は、「木村英子」として曲師となった。

 1930年6月15日、JOAKに出演し、「相馬大作」を放送。

 1930年9月、オデオンレコードより「祐天吉松」を吹き込み。

 1931年7月、パーロホンより「日本銀次」を吹き込み。

 戦後はインパール作戦から生き延びて復員して来た長男の小伯猿夫妻の家に転がり込み、浪曲もやらないで相撲に出かける日々を送っていたという。

 妻の八重子もラジオやレコード出演でなかなかのギャラを稼いでいたが、妻にも子供にも使わず、ほとんど遊びに使ったというのだから大変なものである。子供たちが苦労したのは言うまでもない。

 そのくせ、子供に憎まれる事はなく、最晩年は孝行息子の小伯猿の家で安楽な老後を過ごしていたという。おめでたい人である。

 1968年、74歳という高齢を天命に、長男の家で息を引き取った。内山惣十郎は「好き勝手に生きて死ねた幸せな人」と論じている。

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