元は相撲の行司役・妻川歌燕

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元は相撲の行司役・妻川歌燕

 人 物

 妻川つまかわ 歌燕かえん
 ・本 名 小野寺 長太郎
 ・生没年 1888年4月16日~1934年頃
 ・出身地 東京

 来 歴

 妻川歌燕は戦前活躍した浪曲師。相撲の行司出身という異色の経歴が売り物だったらしく、若い頃に鍛えた相撲甚句や相撲ネタで人気を集めた。弟二人も浪曲師となり、「妻川三兄弟」として一時期売れたという。

 経歴は、『日刊ラヂオ新聞』(1930年9月6日号)に出ていた。

 行司から浪界に 妻川歌燕の事

 今晩浪花節物真似で一わたり浪花節の型を実演する妻川歌燕は江戸っ子のチャキ/\、もと高砂部屋に長太郎といつて行司をしてゐたのだがこの人子供の時より浪花節が三度の飯より大好きで、ハツケヨイヤの掛声も節で唸ったりしてしまふといふ熱狂ぶり、ある時本所は相生町の素人浪曲大会に出て大好評を博したまでは無事だったが、あとで時の大関日太刀山から商売そっちのけで浪花節狂ひは何事だと散々油をしぼられた
 しかし好きこそものの上手なれ次第に素人離れがして来て妻川勇三の門に入ったのが十七歳の時小勇と名乗り寄席へ出た、常陸山もいよ/\彼が本職を浪花節語りに乗かへたと聞くと『一そなるならなるで雲右衛門みたいに偉くなれ』と励まして呉れる、で小勇も一生懸命はじめ習ひおぼえた物真似で売出した、当時今の虎丸が鼈甲斎吉右衛門とて矢張り物真似をやり、二人の人気は大したもの、下谷池ノ端の松菊亭で吉右衛門が真打の看板をあげると続いて小勇も看板をあげた――後歌燕となり昨年洋行して帰つて来たが、何分小供時代から物真似得意の人だけに今晩の催しには打ってつけの人である

 弟の小野寺辨次郎、そしてもう一人も若燕、小勇という名前で浪曲師となっている。

 師匠の妻川勇三は、初代東家楽遊の弟子で、後に独立して「妻川」を立ち上げた人物。実力はあったが中看板で終わった。

 1907年頃独立。1907年5月、松菊亭で「三叟、大吉、大谷新、小福、吉右衛門、楽遊、花蝶、馬生、小勇」とある。

 1912年頃、妻川歌燕と改名。実力はあったようだが、如何せん物真似頼りの所があり、虎丸のような大躍進に至れなかったのは惜しかったといえよう。

 寄席では相撲のネタを喜んで読んでいたらしく、正岡容は『日本浪曲史』の中で、「それに行司くずれで角力物ばかり読み会話はさしてでなかったが節尻の哀しかった妻川歌燕」と批評している。

 1915年の『芸人名簿』に名前と生年月日が登録されている。ここから割り出した。 

 1929年冬、天中軒雲月嬢と永田貞雄夫妻にスカウトされて、ハワイ巡業に同行。雲月嬢は浪曲界の大幹部となった伊丹秀子その人である。一行は雲月嬢夫妻と天中軒清月、橘雲平、それに歌燕という顔触れ。 

 この一行で1930年春頃までハワイ各地を巡演し、各地で好評を博したという。  

 1930年9月6日、JOAKに出演し、「浪花節の解剖・浪曲の今昔、物真似等」と称した放送を行っている。 

 そのまんまズバリ節真似であるが、当人は「解剖」と称し、関東節、関西節、中京節の基本の節から、カンチガイ、説教、四ツマ返し、観音などの三味線の手、小島亭徳三郎、東家三叟、浪花亭愛造、木村重友、東家楽遊、三河家円車などの節を巧みに演じ分けた模様。 

 その後も寄席や放送で活躍していたが、1934年頃に亡くなったらしい。

 未亡人となった美代志は木村忠衛に引き取られ、彼の曲師となった。『読売新聞』(1937年5月7日号)に、

木村忠衛は元鼈甲斎虎丸に師事芸名吉太郎、関東節に転向するため木村友忠の門下となり忠から六年前忠衛となつた、ビクター専属で澤田興行部に属してゐる、曲師は三年前物故した妻川歌燕の未亡人美代志である

 と事情が触れられている。

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