狂気の果て・浪花亭愛昇

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狂気の果て・浪花亭愛昇

 人 物

浪花亭なにわてい 愛昇あいしょう
 ・本 名 若林 米吉
 ・生没年 1876年9月5日~1928年頃
 ・出身地 茨城

 来 歴

 浪花亭愛昇は戦前活躍した浪曲師。浪花亭愛造の秘蔵弟子で、後に師匠の名跡を襲名するも美貌と優美で知られた師匠とは裏腹に、ハチャメチャな浪曲と奇行で知られた。最期は自殺を遂げてしまったという。

 江口鉱三郎『おなじみ浪曲集』にわずかであるが経歴が出ている。

 二代目浪花亭愛造は茨城県の生れで、二十六才で初代に入門愛昇と名乗り、そのすみきった美音と名調子は、東京各所の寄席で人気を獲得した。
 初代没後二代を襲名し、おおいに感激して研鑽したかいあって大家となった。浪花節組合長をつとめ後進の指導にあたったが五十一才で逝去した。

 美声で味わいのある浪曲であったが、愛昇時代から底が抜けたようなハチャメチャな、筋も端正さもかなぐり捨てたような浪曲を得意とした。

 一部有識者からは「下品」と嫌われたそうだが、職人連中や贔屓からは「面白い」とほめられた。きちんとした芸の上でわざと崩していたのだろう。

 愛昇時代の芸が、『天鼓』(1906年2月号)に出ているので引用。

▲浪花亭愛昇 無闇に三味線の調子を高くして大声を出すを名人と思へり、唄ふて曰く「下がッちゃ怖わいや太閤様、尻を端折ってブラリ/\とやツて来た」

 1906年、師匠の愛造が夭折。一門の相談の末に愛昇が師匠の愛造を継ぐ事となった。

 1907年5月頃、浪花亭愛造を襲名。一門の他、玉川勝太郎や東家楽遊も応援する形で襲名をしたようである。

 ただ、襲名した後も芸風は変わることなく、相変わらず底の抜けたような浪曲と奇行で関係者を呆れさせた。

 こうした奇行の一端は、正岡容の『木村重正』に詳しく出ている。

 同じ頃おい、発狂、墨水に投じて死せし二代目浪花亭愛造も、
 〽弁慶の野郎がィ、坊主ゥあたまにィ、鉢巻をしてィ
 てなことを調い、低劣極まりてむしろそのいや果ての醍醐味に到達していたりしときけど、重正の如きも、まさに同工異曲なりしなるべし。

 1919年6月15日、赤坂三会堂で開かれた「懇談会」に出席。多くの大株主や実業家の前で口演したという。一心亭辰雄、鼈甲斎鶴堂、吉田奈良丸など70名が出席。

 その後も寄席に出ていたが、発狂。最後は隅田川に飛び込んで死のうとしたが失敗。その数日後、首をくくって死んでしまった。

 昭和の初期に亡くなったらしいが――江口氏の説を採用すれば、1928年頃になる。

 最初から最後まで奇行と狂気に満ち溢れた一代男というべきであろうか。

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