瞼の母の東家三燕

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瞼の母の東家三燕

 人 物

 東家あずまや 三燕さんえん
 ・本 名 松本源太郎
 ・生没年 1903年1月1日~1984年3月27日
 ・出身地 東京?

 来 歴

 東家三燕は戦前戦後活躍した浪曲師。楽燕門下の中堅として堅実な舞台を得意としたほか、吾妻乙女という女流を育て上げた。

 幼い頃に、両親と生き別れ、蒔絵師の「松本家」に貰われる不遇な境遇を送ったという。ただし、養家では可愛がられたそうである。

 関東大震災直前に東家楽燕に弟子入り。東家三燕と名付けられた。

 師匠によく就いて楽燕節を取得。読み物も楽燕系の戦争ネタや義士伝が多かったという。

 真打披露後、生き別れたはずの母と再会。当時話題になっていた長谷川伸の「瞼の母」になぞらえて、美談となったという。

 『浪曲ファン60号』の吉野夫二郎『浪曲綺談』の中に、その対面の一部始終が書いてある。

末広友若の兄弟子東家三燕の場合は、両親が離別したため孤児となった彼は、松本家に貰われて育った。蒔絵師の養家は彼を可愛がってくれたが、実の両親への情が年とともに育って、東家楽燕の弟子になってからも、伝手を求めで、探し続けて漸く兵役を終って一人前の真打になった時に、母が千葉県の五井に居る事をつきとめた。早速逢いたい旨の手紙を出した処丁度地方巡業で甲府に行った時、宿へ訪ねて来た二人の朴とつな老人があった。これが実母の嫁ぎ先の親戚で、今と違ってその頃は芸人と言うと堅気からは軽く見られていた時代とて、人柄を調べに来たのだった。しかし三燕の真面目さが、この老人達の眼鏡にかなったのか、何日の何時に新宿駅の待合室で母が待っているからと約束して帰った。サア三燕はその時を待ちかねて、塩瀬の羽械に袴、ステッキをもつと言う正装で新宿駅に降り、三等待合室へ行った。当時の新宿駅は木造で三等待合室は何百人もの人が座れる程広かったのに、入った瞬 燕の目は、ピタリ片隅へ注がれた。これが血が血を呼ぶと言うのか、その視線の中心に老母がサッと立ったと言う。多勢の混雑の中で、他には全然目もくれない母子の出合は、今でも不思議だと三燕は言う。それからは料理屋へ呼ばれ、先日の老人等も交えて二十年ぶりの親子対面をしたが、母親の夫なる人は海苔栽培をしていて誠に人が好くて、三燕のよい後援者になってくれた。 

 母との再会後、松本アイという人物と結婚。このアイは「東家愛子」としてよき曲師となった。

 この結婚後間もなくして今度は父と再会を果たした。

 その後数年して、妻を迎えた三燕に今度は実父の消息が分った。横須賀で料理屋をしていると言う。飛立つ思いで妻を連れて横須賀に来て見るとなかなか立派な料理屋で表からは入りづらいので、脇玄関に廻り、妻は表に待たせて、格子戸を開けて入ると、父親らしき人が、玄関の傍で電話をかけている。仕方がないからお辞儀だけして待っていると、目礼して電話を長々とかけていたその人が、漸く電話を切ったので、始めて挨拶をすると、これは又母親の場合とは大違いで.二十何年ぶりの父子対面と言う劇的な場面である筈がまるで二、三日前に別れた同志みたいに、”来たか、上がれ上がれ”と言う。”実は女房が表に待っているんですが””何だ、表になんか立たしておく奴があるか、早く中へ入れな。よく来た”てな調子で、涙なんか出す暇もない。こうして三燕は、養父母に加えて、実の母とその夫、実父とその妻、合 人の親が出来て、それぞれ彼のためによき後援者になってくれたと言う訳。

 浪曲で身を立てた上に、両親、養父母の三家に可愛がられた三燕は真の幸せ者であった事だろう。

 昭和十年代以降は主に軍事慰問や楽燕一座で活躍。中堅としてそこそこの名声を集めたという。また、浅草の「幸楽荘」というアパートに入り、大空ヒットや東ヤジローキタハチ、波多野栄一といった漫才師たちと交友をしている。

 1938年11月、日日新聞と毎日新聞の派遣で上海から中支一帯を巡演している。

 メンバー詳細などが、軍部資料「陸恤庶發七七八号 船舶便乗願ノ件申請」にあった。

一、往路 昭和十三年十一月三十日 宇品發 上海行 
二、復路 同 十二月下旬 上海發 宇品行 

追而 便条券ハ各班毎ニ交付相成度

東京日日新聞社・大阪毎日新聞社 中支皇軍慰問藝術團人名表 第一班 

藝 目   藝 名   名 前   生年月日        

浪  曲 東家三燕 松本源太郎  明治丗六年一月一日生  
曲  師 東家五郎  龜山五郎  明治三十年二月二十日生 
歌謡曲  楠木繁夫   黒田進  明治丗七年一月二十日生 
伴  奏 小泉幸雄   同    大正二年二月十日生   
落  語 柳家権太郎 北村市兵衛 明治丗年十月二十日生   
曲藝漫談 柳家司郎  大高四郎  大正七年二月廿六日生   
曲藝漫談 柳家小龜  大高五郎  大正九年二月十一日生  

 当時の流行歌手、楠木繁夫がいる辺りを見るとそこそこな人気を集めていた事は確かであろう。柳家司郎・小亀は、戦後「柳貴家正楽・五郎」と改名。水戸大神楽の伝承と発展に務めた。

 さらに、1939年7月より、北支を回っている。「陸恤庶發第七七三號 船舶便乗願ノ件申請」によると、

陸軍恤兵部主催 北支方面皇軍慰問團人名表(八名)

藝 目     藝 名   本 名   年 齢 

落 語   柳家権太楼 北村市兵衛   四十三才
浪 曲    東家三燕 松本源太郎   三十七才  
曲 師    廣澤年子 志賀年子    二十五才 
日本舞踊  西川扇枝女 中島波子    二十二才
三味線唄  唄村ウタ江 鈴木朝子     三十才
キングレコード
歌謡曲      春代 末友花江    二十七才
伴奏     鳥元徳治 鳥元徳治    二十四才
落語珍藝  柳家語らく 梅津松太郎   三十九才

 この頃、吾妻乙女が入門。「東家小燕嬢」と名付けて、大切に育てた。一部資料では「吾妻乙女は三燕の娘」とあるが、どうも違うようである。

 1940年2月、神戸から南支慰問へ出発。「陸恤庶發第五七號 船舶便乗ニ關スル件申請」に詳しく出ていたが、一部判読不能の部分がある。ご了承ください。

一、往航 昭和十五年二月六日神戸出帆廣東行 
二、復航 同四月上旬廣東出帆神戸行

陸軍恤兵部主催南支方面皇軍慰問團人名表(八名)

藝 目    藝 名   名 前   年 齢  

落 語     柳家権太楼  北村市兵衛 四一才 
浪 曲      東家三燕  松本源太郎 三八才 
・三味線   鈴之家八千代  鈴本ハル子 三〇才 
・俗曲と     坂東多見  篠原キヨ子 三〇才  
・日本舞踊   西川扇枝女  中島渡子  二二才 
西洋舞踊     黒田?子  山田ふみ子 二二才  
アコーデオン獨奏 鳥元徳治  鳥元徳治  二五才  
落語漫藝     柳家語樂 梅津松太郎  四〇才 

 太平洋戦争開戦後も、空襲や爆撃を乗り越えて軍事慰問や工場慰問へ出かけていたという。

 1942年8月、北支慰問へ出発。「陸恤庶發第三四九號 船舶便乗ニ關スル件申請」に団員表が残って居た。

一、復航 昭和十七年八月下旬 塘沽發 宇品行

北支派遣慰問團員表(九名)

 種 目     藝 名    本 名   年齢

團長歌謡曲    小西信義   同 上   二八 
同          豆太  橋本きぬ   三一 
アコーデオン   大野達郎   同 上   二八
浪 曲      東家三燕  松本源太郎  四〇
曲 師      東家愛子  松本アイ   四一
漫 才      荒川芳夫  小澤伊三郎  四二  
 同       荒川千枝子 小澤サト   三四 
舞踊伴奏歌謡俗曲 清元梅夏代 張ヶ谷ミツ子 三〇 
日本舞踊    坂東勝千春  橘秀子    二一 

 戦後も地方巡業や寄席で活躍。

 相変わらず楽燕節で人気を集めていたというが、1956年に九州の劇場で倒れた。脳出血と診断され、寝たり起きたりの生活になってしまったという。当然浪曲を唸れる体ではなくなってしまい、事実上の引退となった。

 師匠の三燕が倒れたと聞いた弟子の吾妻乙女は、自分の人気や仕事をなげうって三燕の介護によく務めた。その介護は師匠が亡くなるまで続いたというのだから大した美談であるが、一方で吾妻乙女という有望な浪曲師を自らの手でむげにしてしまった、という悔しさもあったらしい。

 そのことは『月刊浪曲』(1984年4月25日号)に詳しい。

 昭和三一年に巡業先の天草で、師の三燕が脳いっ血で倒れた。人一倍師匠思いのおとめは三燕の妻アイと共に看病を続けたが、舞台再起を不能と知った同三二年に、師と共に彼女もいさぎよく浪界を引退した。
 東京・荒川区の自宅で養生する師三燕を看病しながら、妻アイの手ほどきを受けて和裁の仕事を会得していった。
 半身不髄の師の下の世話までしておとめは一生を独身のまま尽した。 三燕の妻もおとめを我が娘のように可愛がってくれていたが、その妻は三燕を残したまま昭和五四年に他界した。
 以来、取り残されたおとめは、和裁一筋に生活を頼り、毎日かいがいしく師匠を看ていたが、この三月二七日、 遂に三燕もこの世を去った(八一歳、法名 新日反元徳翁良源信士)。
 思えば三〇年に近い歳月を、娘盛りを棒に振って師匠のために尽しぬいたこのおとめの深いえにしを…何と評価したらよいものだろうか。余りにも身勝手な自分よがりの多い現代に、まことに尊い花一輪ではないか。「楽燕会」のメンバーである横田十三子女史、 幸楽、燕大丞、菊燕、三楽の各師や、楽燕未亡人山本八重子さんらは、心からおとめの師に尽した心情に涙していた。

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