怪談浪曲の浪華綱右衛門

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怪談浪曲の浪華綱右衛門

 人 物

 浪華なにわ 綱右衛門つなえもん
 ・本 名 蛭田 留尾
 ・生没年 1890年代~1945年5月18日
 ・出身地 東京

 来 歴

 浪華綱右衛門は戦前活躍した浪曲師。「怪談浪曲」を武器に、中川海老蔵以来の道具入りの本格怪談を演じ、寄席や巡業で人気を集めた。田中貢太郎『お化の面』のモデルの一人でもある。

『新演芸』(1946年12月号)の井口政治『浪花節の変り種』によると、浪花亭愛吉の実の弟だという。ただ、愛吉の本名が小林なのに対し、こちらは「蛭田」。婿養子にでも入ったのだろうか。

 愛吉は明治22年生れだというので、綱右衛門も大体そのあたりの生まれだろう。『芸人名簿』には出ていないので生年も本名も判然としない。

 なお、一部文献では「浪花亭愛吉が浪花亭を返上して浪華綱右衛門になった」というが、れっきとした別人である。

 師匠は関東浪曲界の天才と謳われた浪花亭愛造。雲右衛門も奈良丸も一心亭辰雄もその人気と実力に舌を巻いて勝負を挑まないほどの天才であった。

 その愛造に弟子入りして「浪花亭愛行」と名乗る。寄席打ちで人気のあった師匠の後ろをついて芸を磨いた。また、愛造と並んで人気のあった先輩・中川海老蔵にも私淑し、可愛がられた。

 1906年、師匠の愛造が死去。以降は兄や一門と行動をするようになった。

 当初は兄の愛吉が怪談浪曲を演じていたが、1920年に愛吉は「怪談浪曲」を封印し、愛行に譲った。『浪花節の変り種』によると、以下の理由があったという。

大正九年六月連鎖劇流行当時浪花亭愛吉が横須賀の八千代座に乗込むと、某小屋には浪花亭の某一座が廿八人も鶏屋について困つて居ました。クラツカーといふ興行師から何うにかならないかと相談を受けたので、愛吉は某劇団の座長と話合つて怪談浪曲連鎖劇と銘打つて開演仕様と引受けると、次の乗場を横浜敷島座に極めて来ました、此劇場の前の寿亭には常日頃浪花節の連中が世話になつて居るので、寿亭に無断で敷島座へ看板を上げては申訳ないのです。殊に怪談浪曲は盆興行で大当り連日の満員に名古屋の一座は無事に帰へしたのですが、寿亭は親分が北海道に行って留守中で留守の人から愛吉に抗議が出ました。愛吉は詫を云つて二十日間で興行を打止め、寿亭の親分には申訳ありませんから以後怪談浪曲は演りませんと云つて、弟の愛行へ怪談浪曲を引継がせました。

 兄の跡を受け継いだ愛行は、兄や中川海老蔵について道具入り怪談浪曲を会得し、「浪華綱右衛門」と改名した。怪談を捨てた兄は、関東節の古老として活躍する事となる。

 1925年頃より、夏場になると寄席を借り切って「怪談浪曲」と表看板に売り出した。その名の通り、「累物語」「四谷怪談」「牡丹灯篭」などの怪談を引っ提げ、最初は浪曲を唸っているが、話が怪談じみてくると衣装を早変わりをしたり、舞台から消えたと思うと幽霊の姿になって客席から現れる――といったバラエティ豊かな芸を得意とした。

 時には一人何役もこなし、後見まで使って髷や衣装をさながら歌舞伎の如くに変えるほどの鮮やかさを見せた。

 とにかく視覚本位で、徹底的な娯楽の姿勢から一部の好事家からは「泥臭い」と嫌われたが、市井の観客や地方の客には大受けで、夏場は特に忙しい日々を過ごした。

 そうした芸質から番付ではどこに入れていいのか困ったと見え、「怪談浪曲 綱右衛門」とわざわざ別項を記してお茶を濁す始末であった。

 1930年、怪談浪曲の師匠であった中川海老蔵が死去。海老蔵が死ぬ直前に、海老蔵秘蔵の怪談のお面をもらったが、これが元で祟られかけた。

 この恐ろしい逸話は『読売新聞夕刊』(1936年3月4日号)に、「アラ恐や形見の面 祟りに慄へて“法の鎮め” 悩みの 怪談浪曲師 ネオン東京に アンドン話題」と題して紹介されている。

何ものの作とも知れぬ稀代の逸品、そのおバケの面にたゝられた怪談浪曲師があまりの怖<おそ>ろしさに、これを菩提寺に封じこめようといふ『ネオン・東京』にはおよそ縁遠い大時代な話―足立区本木町に住んでゐる怪談浪曲師の浪華綱右衛門、それがお面に悩まされてゐる当人だ、お面は二尺に一尺といふ、すでに大きさで人を呑まうといふグロテスクなもの、乳房のやうに垂れ下つた左の眼、右は月形の半眼、麻のやうなざんばら髪、口からは赤いものがタラ/\と流れやうといふ、物凄さはかつて無き逸品。
重宝なことにこの面はお岩にもかさねにもなれるやうに出来てゐるのだが、そのうへ、誰の仕業か、痛んだ面を濃鼠の布で張つたため、いよ/\陰に沈んで、お面を見るものの誰彼なしにうらめしやをあびせたい風情である、百六歳で沼津で死んだ初代林家正蔵、どこで手に入れたか、この面を秘蔵してゐて死ぬときに形見として弟子の中川海老蔵にやつた、昭和五年の秋の暮れ、女房を奪はれての苦のわづらひから、明日知れぬ命の噂もあつた海老蔵が杖に縋つて弟子の綱右衛門の家へ影のやうに現はれた、風呂敷から件の面を取出して涙ぐみながら
形見にやるといふ話に、綱右衛門は何の気もなく受取つたが、さて帰つて一週間目、海老蔵の死んだ知らせをうけた、綱右衛門はこの面を使つて四谷怪談の浪曲に仕込み、深川の桜館にはじめて持ち出すと、きのふまで来てゐた三百の客が十四、五に減る、翌晩は木戸に大喧嘩があつて血の雨がふる。昭和七年には弟子の綱行にこの面の埃を払つてから久々で冠せ、写真に撮ると、言葉の行違ひで猫の様におとなしい綱行と喧嘩になり、ビール瓶で殴つて怪我をさせ、家内は病気のしつづけ、家作はいつの間にか人手に渡る始末、この間なぞも遊びに来た伊藤静雨氏と禁物のお面の話になつたが、静雨氏が帰ると間もなく、夫人の死んだ知らせをうけるなぞ、お面のたゝりは手をのばして止まるところ知らぬため、近く菩提寺の浅草玉姫町永伝寺の川上住職と、話し合つた末、お面供養をして、仏の力でこの名作を手も足も出ぬやうに同寺へ永久に封じこめることゝなつた。

お神酒まで上げてるになんの不平 クサリ切る□□綱右衛門
綱右衛門さんの話―『このお面と一つ家にゐれば、心中でもせねばなりません、床の間に祀つてお神酒まであげてるのに、何の不平でかうまで祟るのでせう、二、三日前もね、こいつをうつかり持つて鳩ケ谷へ語りに行つたら、あの大雪でお客が一人も来ず、這々のていで逃げて来ました、ええ、封じこめますとも、いかに名作でも、こんな物がうちにあつたのでは命までなくしますよ、飛んでもねえ物を背負ひこんだものだ』。ひでえことになる、あの大雪もかうなると、お面のせゐかな?

 ここからインスパイアされたのか、はたまた綱右衛門に話を聞いたのか、その辺はわからないが人気作家だった田中貢太郎がこの怪奇譚を短編小説にし、1938年に「お化の面」として発表した。

 怪談浪曲師浪華綱右衛門の家に、怪奇なお化の面があった。縦が二尺横が一尺で、左の眼は乳房が垂れさがったように垂れて、右の眼は初月のような半眼、それに蓬蓬の髪の毛、口は五臓六腑が破れ出た血に擬わして赤い絵具を塗り、その上処どころ濃鼠の布で膏薬張をしてあった。

 という出だしから始まり、後の内容は新聞とほぼ同義である。新聞から本当にそのままタネを拝借した可能性は高い。

 その後も怪談浪曲で稼いでいたが、戦争で寄席がなくなり、怪談浪曲を鷹揚に楽しむ時代でもなくなってしまった。綱右衛門は残された寄席の大喜利に出たり、地方巡業で暮らす事となった。

 それでも達者に暮らしていたというが、1945年5月の空襲に遭遇し、避難中に転倒。その時のケガが元で衰弱し、息を引き取ったという。『浪花節の変り種』によると、

 愛行は後に綱右衛門改名して怪談浪曲を浪曲を二十余年も続けてゐる中、去年五月空襲騒ぎに転倒したのが原因となつて同月十八日に逝くなり浅草石濱町永傳寺に埋葬しました。

 という。ある意味では虚しい戦死とも言えそうである。

 未亡人は兄の愛吉の元に身を寄せ、愛吉に怪談浪曲の道具を譲り渡した。愛吉は敗戦を生き延び、1946年夏、26年ぶりに怪談浪曲を未亡人の後見で演じ、喝采を得たのは皮肉であった。

 弟子に村田英雄の養父となった浪華綱若がいる。

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