天才浪曲少年・宮川左近坊

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天才浪曲少年・宮川左近坊

 人 物

 宮川みやかわ 左近坊さこんぼう
 ・本 名 山崎 清太郎
 ・生没年 1925年4月9日~1982年9月9日
 ・出身地 ??

 来 歴

 宮川左近坊は戦前戦後活躍した浪曲師。10代にして天才少年の誉れをほしいままにし、四代目宮川左近候補とまで謳われた天才児であった。戦時中に覚えたヒロポンや浪曲不況の波にのまれ、遂に大看板になりそびれた、時代に翻弄された芸人でもあった。

 『上方芸能88号』(1985年6月号)の「浪曲研究会公演記録」には「六歳で東京で三代目左近に入門」とある。小学生の頃から浪曲師として売り出したのは事実のようである。

 一方、『都新聞』(1938年9月24日号)掲載の「宮川左近坊入門と宮川左近の死 これからはあたい人の節は真似ない」では、ちょっと経歴が異なっている。

 先月二十一日、四十一歳といふ男の真ッ盛りを早世した宮川左近が死の四ヶ月前、今春四月九州を巡業した時、博多で左近の楽屋へ坐り込んで弟子にしてくれと、どうしても動かない少年があつた
 本名山崎清太郎、年は十四、親も承知だと云ふが、あんまり大したものでもなささうなので体よく断ると
 おぢさんはあたいの咽を知らないからそんな事を云ふんだらう、一遍聴いてごらんよ、らまらないから……
 とやつてご覧と云ひもせぬに、左近を前に「生ける屍」の一席を語つた
 レコードでゞも覚えたか節は左近のそのまゝ、しかも美声で節廻しの鮮かさ、或る少年の予言通り左近はたまらなくなつてしまつた少年は正直だつた その代り、おぢさんの節と、仙台天中軒雲月の節と、もう一人天光軒満月、この三人の真似しかあたいには出来ないよ と云つた
 雲月と満月をやらせて見た、成程生き写しだ、左近は感服して 巧い/\、だがお前のやるのは皆んな廃れ者になつた人ばかりだネ と云つた、と云ふのは、先代雲月は脳を冒されて廃人となり、満月も病を得て再起絶望を伝へられてゐる人だからだ、然しこれならよし、磨かせたら立派な浪曲家になるだらうと、親ともに談合、左近は清太郎少年を弟子にした
 そして二ヶ月後には宮川左近坊の名を与へて旅など連れて歩いてゐたが、雲月、満月、左近の節を巧に綯ひ交ぜだふぁ美妙な咽が人気に投じ、先々月大阪では、十四歳の左近坊のために中堅どこの既成浪曲家が皆喰はれてしまつたと云ふ話さへあり、左近もこの少年の将来を少からず望んでゐたが、翌月二十一日急逝してしまつた
 師を失った左近坊のために目をつけたのが名古屋の興行師玉川で、次の時代の左近たらしめるべく、楽燕、奈良千代、栄楽を尻押し役に、今度の国際劇場上りとなつたのだといふ
 左近坊は、左近に弟子入りの時左近に云はれた 
 お前のやるのは皆んな廃れ者になつた人ばかりだネ 
 を思ひ出し、三人の中でも最も得意としてゐた師匠左近も急逝してしまつたので、師匠師匠を没したのは自分のせいのやうな気でもしたのか、これからはあたい人の節は真似ないよ、また殺すと悪いから、と云つてゐる

 ただ、上の『都新聞』の経歴はあまり信用できない。現に左近坊名義でのレコードは、1936年頃から散見されており、10才弱にして売り出していた様子が確認できる。

 また、兄弟弟子にあたる宮川左近ショーの四代目宮川左近や暁照夫などは「左近坊は元々宮川右近の弟子」と語っていたそうである。

 6歳ころに浪曲界に入り、そこから三代目宮川左近に認められて門下に入ったと考えるのが妥当な線だろうか。村田英雄が子供の頃に無断で「少年酒井雲」と名乗らされたように、看板の大きさを誇示するためにわざと「左近坊」とつけて活躍していた可能性は否定できない。

 筆者は、どちらかというと「宮川右近の弟子で、勝手に左近坊を名乗っていた→三代目に認められ正式に名乗れるようになった」という形が正しいのではないか、と案じている。

 正式に三代目左近の門下に入る前から天才少年の誉れ高く、10歳弱にしてレコード吹込みを行うほどの人気があった。

 1936年10月、ポリドールより「妖刀籠釣瓶」。

 1937年3月、コロナレコードより「事実哀話賢一少年」を吹き込み。

 1937年7月、コロナレコードより「涙の紙芝居」を吹き込み。

 上の記事にもあるように、師匠の左近、私淑していた雲月、満月系の新物読み、現代的な悲話・哀話や軍国浪曲を得意とした。10才そこらの青年が、左近張りの哀愁のある節でリンリンと語って見せる所に、お客は大喜びであったという。

 1937年5月18日、妹の好美が誕生。この子も浪曲界に入り、宮川よしみの名義で浪曲三味線を担当するようになった。

 1938年5月22日、名古屋放送より「乳房の母」を放送。

 戦時中は慰問や浪曲大会で活躍。関西を中心にたくましい人気を集め、「四代目左近」を期待される程であった。

 その一方で、戦時中・戦後にヒロポンを覚えてしまい、それが命取りとなった。折角の美声や芸格が、ヒロポン中毒によって崩れてしまったそうで、長らく後遺症にも苦しんだ。

 1950年には、兄弟弟子の宮川左近丸に四代目宮川左近を継がれてしまい、出世ルートを外れるなど辛酸をなめた。

 それでも戦後一応復帰し、毎日放送の「浪曲研究会」に出るなど、一応の活躍は見せている。

 1957年2月23日、「安芸海と母」を口演している。

 その後も巡業や浪曲大会に出演し、相応に活躍を続けていたが、1960年代の浪曲不況に伴い、中央を離れ、地方巡業を中心とした生活を立てるようになった。

 1982年9月、脳内出血で倒れ、52歳の若さで夭折。弟が納骨をしたそうである。没年は高橋ひろみ氏より伺った。

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