侠客傳の天龍軒大洲

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

侠客傳の天龍軒大洲

 人 物

 天龍軒てんりゅうけん 大洲
 ・本 名 寺沢 貫一
 ・生没年 1910年5月26日~1979年以前?
 ・出身地 大阪

 来 歴

 天龍軒大洲は戦前戦後活躍した関西の浪曲師。京山昇造という浪曲師を父に持ち、「京山小桜」として初舞台を踏む。ほぼ独立独歩で看板を築き上げ、戦後関西浪曲界でも類を見ないほどの芸道として知られた。晩年は勝大洲と改名している。

 その経歴は、『上方芸能88号』(1985年6月号)の「浪曲研究会公演記録」にわずかであるが出ている。

〈芸歴〉明治四十三年五月二十六日生。父京山昇造に指導を受け、十二才に京山小桜と名のり、天満国光席初舞台後、天龍軒大洲と改名。

 また、1966年2月、「浪曲親友協会創立80周年記念特別興行」と称して大阪朝日座で浪曲大会が行われた際のパンフレットにも経歴が出ている。これを引用しよう(高橋ひろみ氏よりお借りした)。

 初代愛曻の門人京山昇造の子、 少年時代は小桜と名乗っていたが、青年に至って天龍軒大洲と改名し、更に今度は勝大洲と改姓した。関西浪曲界の中堅として永年売りこんで来た実力は慥かなものだ、彼の舞台は文字通り芸達者、芸が巧いという一語に尽きるであろう。声量も豊か楽屋雀の批判では、恐らく大洲の芸力は超一流の大看板にも劣りはせぬだろうと、然り、お世辞抜きで良い浪花節だ敢えてここに浪花節といったのは、浪曲というより浪花節といった方が疲れの芸にぴったりだと感じるからである。
 相撲の若秩父を小型にしたようなアンコ型の童顔、お人の好さが顔に現われている、この人の場合将来を期待するより、一日も長く今日の舞台を保持して貰いたいと思う。

 父・京山昇造は、関西浪曲界の大御所・京山愛昇の弟子で、ケレン読みで相応に扱われていたという。

 父から手ほどきを受けたものの、芸やネタはほぼ独学で学んだらしく、京山派に属し過ぎない独特の態度をとった。上のプロフィールで「独流」と名乗っているのもその表れだろう。

 1941年の番付では、新鋭として写真入りで扱われている。

 1953年の番付では、天龍三郎と並んで「龍虎」と扱われている。

 1955年の番付では、前頭筆頭に就任。その後も関西の中堅として堅実な活躍を続けた。

 読物のネタは幅広く、モタレの芸人としては最適であった。一方、そうしたうまさが遂に大看板になり損ねたという見方もできなくはない。

 1956年8月25日、毎日放送の後援で結成された「浪曲研究会」の第1回公演に出演。「円山応挙の幽霊」を口演している。

 1957年4月27日、第9回公演に出演し、「阿武松緑之助」を口演。

 1958年10月25日、第27回公演に出演し、「鬼面山と不知火」を口演。

 1959年7月25日、「浪曲劇場」と改称した浪曲研究会の第5回に出演し、「天保水滸伝鹿島の決闘」を口演。

 これらの音源の大半は、毎日放送のプロデューサーをしていた斎藤英二氏が保管し、ワッハ上方に寄贈した――と斎藤氏より直接伺ったが、ワッハのリストにはなぜかない。ある事は確実であり、コピーは大阪国際交流センターだったかが持っているという。

 晩年、なぜか「勝大洲」と改名している。

 1977年の演芸家連合の名簿にはその名前が見えず、1979年5月に出された『上方芸能61号』の「関西現代浪曲名鑑」にはその名前を見つけることができない。60代で亡くなったとみるべきか。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました