広沢虎造の義父・美弘舎東盛

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広沢虎造の義父・美弘舎東盛

 人 物

 美弘舎びこうしゃ 東盛とうせい
 ・本 名 山田喜太郎
 ・生没年 1867年12月5日~1942年4月14日
 ・出身地 ??

 来 歴

 美弘舎東盛は、戦前活躍した浪曲師。浪花節黎明期より活躍し、晩年は婿養子に入った広沢虎造の実力を見抜き、妻の呑気家綾好と共に売り出しに力を注いだ。

 美弘舎東一(青木勝之助)の末弟子で、晩年の師匠によく仕えたという。師匠の東一は既に耄碌しており、浪花亭駒吉一座の前読みをしていたが、東盛は腐る事はなかった。

 なお、東盛という名前は二代目だったらしく、本来は兄弟子の鈴木熊蔵が名乗っていた。ただこの人は、1900年に妻を半殺しにした咎で連行され、実刑判決を受けている。

 その跡を継いだようであるが、こんな名前をよく継いだものである。そのため、東盛が二人いる事になってしまっており、番組表などを追うとややこしい事になる。

 兄弟子が逮捕して間もなく東盛を襲名。1901年頃には既に一枚看板となっている。

 また、全国を回っていたらしく、1903年1月1日の『北海タイムス』(『上方落語史料集成』より)に「△丸市亭 浪花節の広弘舎東盛一座にて御機嫌を伺うと。」とあるのが確認できる。

 1907年12月、未成年の少女をいたずらした咎で拘留されている。『読売新聞』(1907年12月15日号)に、

浪花節屋の悪戯 四谷区箪笥町浪花節師匠義弘舎東盛事山田喜太郎(四二)は十二日午後六時頃京橋区鉄砲亭へ出る途中深川区諸町中村平作妹サク(十七)が風呂敷包を抱へて桂庵を尋ね居るに出会ひ桂庵なぞら恐しい鬼だよ俺に附いて来いと諸所を引張り廻し自分一人蕎麦屋で一杯やり同夜十一時頃同区富川町旅人宿勢国屋に長女ハル(一七)と偽名してサクを連込み其夜無理にサクを泊らせたので同女は涙ながらに同町交番へ訴へ出出たるがサクの曰く「彼の方は痘痕面の醜男なれどインバネスに中折といふ紳士風なりしによもやと思ひました」と喜太郎は不取敢氏名詐称の廉にて拘留廿九日に処せられたり

 1900年代中頃に、当時売り出しの娘浪曲師・呑気家綾好と一座をするようになり、後年結婚。娘・美家好を授かっている。

 以来、1920年代まで一枚看板として出ているが、可もなく不可もなくといったところ。芸は下手ではないがずば抜けてうまいというわけでもなく、中堅で終わったという。

 むしろ、妻の綾好のほうがウケたというのだから皮肉なものである。

 1922年、上京してきた広沢虎造を興行師の大谷三蔵から進められる。大谷から「娘をめとらせたら」と相談を受け、その気になって、婿養子にしている。一時は師匠の名前「東一」を継がせる算段もしていたらしいが、虎造が固辞したため、これはお流れとなった。

 親子以上に年の離れている虎造を「先生」と呼んで、徹底的に引き立て、東京での売り出しに尽力を注いだ。虎造がすぐさま売り出したのは、この東盛夫妻の影響や薫陶が大きいという。

 虎造夫妻が一躍浪曲の大看板になると「虎造の親父様」と称えられるようになり、娘夫妻からも多分な小遣いをもらい、安楽な余生を手に入れる事が出来た。これも人徳ゆえだろう。

 1931年7月、妻の綾好に先立たれる。その後も虎造の引き立てに回り、時には前座として前読みをするなど、娘夫妻を溺愛した。

 虎造が大スターに君臨するや当人も大満足だったようで、虎造や一門から親父様と慕われ、周りからも慕われる楽隠居となった。

 1936年1月21日より、浅草音羽座で「山田東盛引退披露」を実施。虎造を筆頭に、雲井雷太郎、天中軒雲月、木村友衛などが列席する豪華版であった。

 1942年、76歳という天寿を全うして死去。戦争こそ始まっていたが婿が華々しい葬儀を上げてくれたおかげもあって、最後まで恵まれた人であった。

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