壮士出身の自称二代目・桃中軒白雲

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壮士出身の自称二代目・桃中軒白雲

 人 物

 桃中軒とうちゅうけん 白雲はくうん
 ・本 名 堀本 勘太郎 
 ・生没年 1888年~1955年4月23日
 ・出身地 熊本県

 来 歴

 桃中軒白雲は戦前戦後活躍した浪曲師。二代目雲右衛門を自称し、色々と話題の多い人であった。芸も達者であったが、それ以上に奇行で知られたというのだからおかしい。

 経歴は『読売新聞』(1928年2月8日号)に出ているが、どこまで本当なのかどうか。

口演する桃中軒雲右衛門入道さんは故雲右衛門の高弟で芸名は白雲と名乗つてゐたが一昨年の春師匠雲右衛門の遺族に現在の芸名を許されて人気を呼んでゐるとともに東西浪友会の幹部として斯界に重きをなしてゐる。浪曲界には変り種も多いが雲右衛門入道クンはその一方の旗頭であらう。郷里熊本の中学済々黌を卒業し「乃公海軍軍人となつて国家の干城たらん」と胸をたゝいて江田島の海軍兵学校に入学し三年蛍雪の功を積んで、あっぱれ海軍少尉候補生となつたが健康を害して軍籍を退き其後ゴロ/\としてゐたが思ひ立つた様に当時の新派俳優で売り出していた川上音次郎一座の佐藤良介の門下生になつて悪役を勤めてゐるうち、大正元年故人雲右衛門の美音を聴いて、新派俳優におさらばを決めて其の弟子となつて浪花節の稽古に励んだ。新派俳優の経験もあつたので一年後には許されて真打となり今日に及んでいる。

 一方、芝清之は『浪曲人物史 その系図と墓誌録』の中で、

 石川義隆という芸名で、若い頃新派の役者をしていたことがある。(同じ仲間に、香川次郎、後の桃中軒香川入道もいた)
 役者を廃めて、縁日に出て法律の本を売って暮した。絣の着物に袴、ほう歯の下駄で街頭に立ち、バイオリンを弾き唄を聴かせて客の足を止めて、集った所で、法律論をぶって本を売った。
 彼が浪花節に入ってから”喧嘩白雲”と呼ばれる程暴れ、警察に呼ばれたが、巧みな法律論を展開して、取調官を煙に巻いたと云うのは、別に法律学校に行った訳ではなく、この頃の経験からであろう。
 この唄を聴いた雲右衛門の書生から、声が良いのがいると云うので雲右衛門の耳に入り、浪花節をやらんかと誘われて一門に加わった。
 雲右衛門が本郷座に舞台に上った年の、明治四〇年一二月が、白雲の初舞台であった。(十九才)

 とある。新派俳優をやっている所は一緒であるが、兵学校を出たとかそういうことは書いてない。

 しかし、芝清之の経緯は些かできすぎているような気がする。当時の学歴を考えると、中学卒業が16、そこで一発合格して3年間で兵学校卒業する時には19歳――と計算がつく。別段矛盾は起こってない。

 また、『浪花節名鑑』1907年4月入門とある。どれが本当なのか判然としない。

 兵隊学校時代には、練習艦の浅間に乗ってアメリカに上陸した事もあるという。

 兵学校卒業後、雲右衛門に入門し、一年で独立した割には『芸人名簿』などには記録がない。

 1916年11月7日、雲右衛門が亡くなったのを機に本格的に独立。師匠の遺言を背いて「二代目雲右衛門」を自称し、門弟たちと対立する事となる。

 1920年12月21日より、浅草の名門劇場・宮戸座で独演会を開いている。

 1921年1月頃より、兄弟弟子の雲州が「二代目雲右衛門」を襲名するのに対抗するが如く、「白雲独演会」を各劇場で敢行。雲州一行を牽制する事となる。

 しかし、けんかっ早く何かとトラブルメーカーの白雲には大きなパトロンがつかず、多勢に無勢であったという。

 1920年6月19日より一週間、浅草御国座で行われた浪曲大会に出演。共演は二代目雲右衛門、東家楽燕、鼈甲斎虎丸、天中軒雲月、浪華軒〆友など。

 1922年11月、雲右衛門の遺児・稲太郎や兄弟弟子、村雲、小雲、雲風、峰右衛門などを連れて浅草十二階や辰巳劇場で一門会を主催。やはり二代目へのけん制を行っている。

 1922年12月、新談読みのちぬの浦孤舟と手を組んで、京都夷谷座に出ている。『近代歌舞伎年表京都編』によると、

 ○十二月二十二日~二十六日 午後四時開演 夷谷座 
 名人二座大合同 浪花節 桃中軒白雲・ちぬの浦孤舟 

【読み物】二十二日 天野屋利兵衛(桃中軒白雲) 義烈百傑(ちぬの浦孤舟)百々千鳥(桃中軒天風)赤穗識忠錄(敷島大雲)水府義公(広沢常広)乃木将軍(ちぬの浦孤舟)
二十三日 乃木将軍塩原旅行奇談(孤舟)村上喜刻(白雲)
二十四日 南部版雪の別れ(白雲)乃木将軍那須隠栖(孤舟)
二十五日 乃木将軍丸亀連隊包囲の訓(孤舟)倉橋伝助(白雲)
二十六日 伊藤博文(白雲) 乃木将軍(孤舟)

 1923年9月、関東大震災に被災し、その後しばらくは全国巡業で食っていたという。

 1925年12月、アサヒレコードより『義士の討入』『天野屋利兵衛』を吹き込んでいる。これらは日文研で聞けます。雲右衛門張りの爆音を聴かせる。

  1926年春、遺族に許されたと称して「二代目雲右衛門」を襲名。

 1928年2月8日、JOAKに出演し『伊藤博文・井上馨の青年時代』を放送。雲州の雲右衛門がいるにもかかわらず、雲右衛門入道として出演している。凄まじい話である。

 1929年夏には東家若遊、東家小燕三、千代田美堂と共にハワイへ巡業。名義は桃中軒雲右衛門。すごい話である。

 1936年頃、弘前巡業中に成田幸雄という青年が弟子入りをしてきた。声が良いので彼を弟子にして「白鶴」と名付けた。この人こそ戦後バラエティー番組で活躍した「くしゃおじさん」である。

 1937年頃、江戸川浪六(後の木村重正)から「三友演芸場」を500円で買い上げ、席亭に収まった。

 1939年頃、白鶴に「桃中軒白雲」を譲ったという。

 1940年、雲右衛門の未亡人を引き取り、彼女の世話をする傍ら、「雲右衛門の名跡を協会に譲渡する」と宣言。『都新聞』(1940年7月14日号)に書き立てられた。

初代雲の位牌と未亡人とを守る白雲
浪曲界中興の祖といはれる近世の名人桃中軒雲右衛門の名跡は「雲右衛門に二代なし」の鉄則に依り誰人もこれを襲名する者もなく、遂にその二代目を継承する程の名家が出なかった……と思ひきや、当々二代目桃中軒雲右衛門を名乗ってゐる浪曲家がある事を知った日本浪曲協会では早速事実調査に着手した結果、その前後の経緯が判然し永田書記長の斡旋で、この名跡問題は円満解決を告ぐるに至った、即ち今日二代目雲右衛門を名乗つてゐるのは、雲右衛門の門弟の桃中軒白雲であるが、その以前、今から十数年前に同じ雲右衛門の門弟である桃中軒雲州が、浅草御国座で、先代虎丸、東家楽燕の口上で、正式に雲右衛門を襲名し其後六年打ってゐたが思はしくはなかつたために廃業し帰国してしまつた、其後雲右衛門が小繁時代から世話した西岡ひさ女(七十一歳)が、雲右衛門の未亡人と称し、故人の位牌を持って桃中軒白雲を訪ねて来たので、白雲はこの未亡人を引取つた世話すると共に師匠たる雲右衛門の位牌を大切に預かつてゐたもので、偶々未亡人の懇意に依り二代目雲右衛門の名跡を継ぎ今日に至つたものである、白雲として正当の順序を踏んで師匠の名跡を継承したもので社會を詐称するためのインチキではないから、協會から高感的に云々される覚えはないと主張したが、永田書記長の斡旋によつて、白雲もこの際潔く雲右衛門の名跡を返上し元の白雲に還ることとなり、師匠の位牌と雲右衛門未亡人とは、従前通り自分が一生保護することを申し出た

 一方、他の雲右衛門の門弟からすればいい面の皮であった。批判を浴びたという。

 戦争で三友演芸館を失い、戦後は「雲右衛門」の名前で再び地方巡業に出たというのだからいい加減な話。

 その時、弟子の白雲が「くしゃおじさん」の原型を見せ、客に大受けだったのに対して「お前は喜劇役者じゃないのだからそんな事してはいけない」と大いに叱りつけたという。

 1955年4月、67歳で死去。墓は足立区の本行寺にあるという。

 彼の死後、成田幸雄は三代目雲右衛門を主張したほか、弟弟子の野口洋々も三代目雲右衛門を主張した。滅茶苦茶である。

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