日露戦争帰りの富士入道

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日露戦争帰りの富士入道

 人 物

 富士ふじ 入道にゅうどう
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~1930年代?
 ・出身地 ??

 来 歴

 富士入道は戦前活躍した浪曲師。日露戦争で足を失って復員後、桃中軒雲右衛門の人気に触発されて浪曲師になったという。元々は中京系の人物だったそうで、師匠は吉川小福円こと富士呑海だったらしいが――どうなのだろうか。

 前歴は不明であるが、『浪花節名鑑』によると、桃中軒雲右衛門の弟子らしい。

 さらにその前は、長らく日露戦争で戦っていた兵隊であったというのだから変わっている。激戦激戦で足を失ったそうで、義足で舞台を務めていた。

『朝日新聞』(1912年7月2日号)に、

▽廃物の利用法 浪花節の富士入道は日露の役の軍人上りで片足だが此間新富座で足袋を買つて片ツぽの要らないのを持て余してゐたが智慧の有るのが「勿体無い裏返してお穿きなさい」

 とある。他にも「日露上がり」とネタにされているので、兵隊だったのは間違いないだろう。

 元々は吉川流の流れを汲んで中京を回っていたらしいが、桃中軒雲右衛門が剃髪して「雲右衛門入道」と改名したのを機に上京。二匹目のドジョウとして売り出すようになった。

『朝日新聞』(1912年2月26日号)に、

▽新入道現はる 雲が入道担った真似でもなからうがまだ富士入道などゝいふ変な浪花節が上つて来た今度は蛸の入道次には三こし入道が大どてらで現はれるかも知れない

 と冷やかされている。看板によっては「日本一富士入道」と広告したのだから、奮っている。

 1912年3月14日より、改良琵琶の岡の家白浪と合同で仙台市の仙台座に出演。

 1912年6月24〜26日、新富座に出演。

 明治~大正初期にかけては、日露戦争の戦勝ムードもあってか富士入道は人気者で、大劇場に出演している。浪曲自体は結構うまかったと聞く。当初は「桃中軒富士入道」と名乗っていたらしい。

 1913年6月16日より浅草みくに座に出演。

 1922年8月、梅中軒鶯童に誘われ、桃中軒雲平、京山日吉などと共に台湾へ巡業。鶯童によると非常に侠気がある人だったそうで、その時の恩義を感じて台湾巡業を誘ったという。『浪曲旅芸人』によると、

 雲平は雲右衛門の旗挙げ当時書生だった桃中軒の最高弟、私も全くの未知ではない、富士入道にはぜひ一度返礼せねばならぬ義理があった。七年前、石州の浜田で、座主に荷物を差押えられようとしたところへ筵の旗を立てて乗り込んで来た富士入道に助けられたことがある。当時私は数えの十三歳、精算のいきさつも知らねば富士入道とも合わなかったが、父から詳しく話は聞いている。

 この時、人気沸騰中の安来節一行と鉢合わせしてしまい、苦戦を強いられる事となったというが、芸そのものの評判は良かったという。

 鶯童曰く、

 但し話題を残したのは富士入道、時代物は曽て一度も口演したことのない男、加賀騒動の一席、織田大炊が火事場へ乗り込んで大槻伝蔵の横暴を押さえるくらり、急を聞いた織田が駕籠で現場に駆けつけるところを、本人熱演で夢中になっていたので、人力車で駆けつけたのである。楽屋はドッと笑い、しかし舞台の本人は気がつかない。ご丁寧にまた”織田大炊が人力車で屋敷へ帰る”とやってしまった。

 1923年に帰国。九州へ廻って千歳家不二夫という九州の浪曲師と兄弟分の盃を結んでいる。その後は一行で飲んだくれの旅を続けていたが、酒の飲みすぎと不入りを受けて、名古屋へ帰郷してしまったというのだからいい加減なもの。

 その後は名古屋を中心に活躍。1930年代まで活躍したが、後年引退したという。

 弟子には富士小入道という人物がいた。これも「変な名前だ」と冷やかされた云うが、後年「東光軒宝玉」と改名し、名古屋浪曲の大御所として君臨した。

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