浪花歌笑の父・浪花吉右衛門

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浪花歌笑の父・浪花吉右衛門

 人 物

 ・本 名 吉野 吉松
 ・生没年 1876年(1873年説もある)~1943年10月3日
 ・出身地 大阪府 池田市

 来 歴

 浪花吉右衛門は戦前活躍した浪曲師。浪曲の始祖・浪花伊助の孫弟子で、天光軒満月嬢、浪花歌笑の実父としても活躍。

 芝清之は『浪曲人物史』の中で、「関西浪界の祖とも云われる浪花伊助の門下」と書いているが、これは誤記のようである。如何に吉右衛門が当時としては長命筋であったとはいえ、幕末の浪花伊助に間に合ったとは思えない。

 倅の浪花歌笑の自伝『浪花節(浪曲)自叙伝』によると、

 大須の寄席で浪花節の元祖浪花伊助の弟子浪花蓑之助の浪花節を聞き感銘して蓑之助に5年間修業で浪花紀之助の名前年期が住み吉松は自ら浪花吉右衛門と名乗り

 とある。 

 しかし、芝清之の墓碑銘によると「昭和18年10月3日 70才没」との事なので、計算が合わない。年でもごまかしていたのだろうか。

 詳しい経歴を記してあるので、大体の所をかいつまんで紹介すると――

 実父は明治9年生まれ 祖母は吉野トラ
 祖母トラは家付きの娘なので婿を取り
 明治9年に私の父になる吉野家の長男吉松が誕生家庭は裕福で父吉松は小学校3年 中学校3年卒業 15才の時に吉松の父は重い病気に成り他界され 二代目の婿養子が連子幸助13才と共に吉野家に這入る 吉松は義父とうまく行かず16才の時に家出をして 相撲が好きなので高田川部屋に行くと

 とある。相撲取りを志願するも、家族一同に反対され蔵に入れられるが、ここを脱出。幸助に跡を継がせるように書置きを残して、そのまま家出を果たした。

 その足で、高田川部屋に入門。「浪花潟吉松」と名乗り、十両まで上り詰めた明治の大横綱・宮城山福松とは弟弟子にあたる。。

 当時としては大男手、181センチ、88キロあったという。大きい。

 間もなく日清戦争がおこり、出兵。中国に派遣され、戦線で働いた。砲台を一人戦地の中に担ぎ込んだ戦功によって、金鵄勲章七等を授与されている。

 ただ、芝清之『浪曲人物史』では「喧嘩をして相手を張り倒したために勲章をはく奪された」と書いてある。どこまで本当かは知らんよ。

 復員後、相撲界に戻ったらしいが間もなく引退。名古屋の友人の所で居候している時に、浪花節の浪花蓑之助の芸を聴き、入門。浪曲師となった。

 独立後は全国を巡業し、旅暮らし。明治末に、芸妓出身の曲師・フサをめとり、夫婦となった。

 1914年、長女・正子誕生。この子が天光軒満月嬢。吉右衛門は「浪花吉奴」と名付けて、わずか4歳で初舞台を踏ませた。

 しかし、フサと折り合いが悪く、1920年に離婚。吉松は正子を連れて、浪曲修行の旅に出る。

 1922年頃、愛媛県三島で知り合った女性と仲良くなり、再婚を考えるようになった。吉右衛門は、この女性が縛られていた親の借金のカタや契約を全て解決。それで再婚をしたという美談が残る。

 1923年、次女・百合子が誕生。この子も吉野百合子の名前で浪曲師となったが、広島原爆に遭遇し、夭折した。

 1926年1月、長男・義一誕生。これが浪花歌笑である。義一が生まれた当初、吉松は吉野家を勘当されていたため、わざわざ母の戸籍に入れ「山本義一」と名乗らせた。

 1930年引退――と芝清之は書くが、何んとも微妙な所。浪花歌笑の自伝では「父はすぐ大三島に帰り家土地を売りお金を持って帰ってきて座組を編成し母に弟を連れて福岡県久留米市花畑で旅館を営業する様に女中さん板前さんも用意」とある。宿屋の主になるために一線を退いたと解釈すべきか。

 そのくせ、この頃、倅の義一に浪曲の手ほどきをし、浪曲師になるよう便宜を計っている。娘二人と義一の後見役になったというのが正しい所だろうか。

 また、1935年に金比羅神社を参詣した際、娘たちと共に扁額を奉納しており、その中には「浪花吉右衛門」と銘が記されている。引退は大げさな表現ではないだろうか。

 1932年、子どもたちを立派な浪曲師にさせるべく大阪へ転居。また、この頃、長年のもつれであった勘当問題が解決し、吉松は吉野家へ帰参が叶った。もっとも、吉野の家を名目上継ぐだけであり、遺産や何やらは親類や弟に明け渡したという。

 1936年、姉の正子が「天光軒満月の芸を学びたい」というので、近くに住んでいた満月を訪ね、この旨を相談。満月はこれを承諾し、正子と義一を引き取った。

 同年、満月の経営する満月館で「天光軒満月嬢」「天光軒満男」として改名披露を行った。

 1936年秋、吉右衛門は徳島巡業中に中風に倒れ、そのまま寝たきり生活になってしまった。徳島の一角に小さな家を買い、これを終の棲家としたという。

 この前後から吉右衛門は長男義一に向って「お前は医者か軍人になりなさい。学校にはいくらでも行かせてやる」と強く言い始め、中学校に進学させた。

 歌笑は医師になりたかったそうであるが、英語や漢文がまるで駄目でスポーツが大好きという典型的ないたずらっ子だったそうで、落第寸前に陥った。

 その落第を避けるために、海軍養成学校へ志願。一定の学力と体力があったために合格の通知を受け、海軍に入った。

 1942年5月、義一が佐世保の海軍学校へ入る事となったために、病身を引きずって見送りに出たという。

 その後も寝たり起きたりの生活を続けながら、子どもたちの出世を願っていたという。

 1943年9月、一度危篤になり、一族が集まった。吉右衛門の容態を知った徳島市長がわざわざ義一に「チチキトク」の電報を送ったそうで、義一は帰宅が許された。

 家に帰ると、父は峠を越しており、病身ながらも「ご苦労様です」と倅に深々と頭を下げて、呂律の廻らぬ舌で義一に話しかけ、涙ながらに何度も軍服を触り、名残惜しそうに息子の姿を見ていたという。

 息子の立派な姿に満足をしたのか間もなく死去。歌笑は父母の願いに従って「十分にお別れはした、兵隊にいる以上、お国が第一」という考えから葬儀には参列せず、遠い空の下で父の冥福を祈ったという。

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