鼈甲斎ひさごの父・京山始メ

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鼈甲斎ひさごの父・京山始メ

 人 物

 京山きょうやま 始メはじめ
 ・本 名 辻信吉
 ・生没年 1862年~1918年
 ・出身地 和歌山県 海草郡

 来 歴

 京山始メは浪曲黎明期に関西で活躍した浪曲師。京山小円、京山若丸などと兄弟弟子にあたる。京山花丸と名乗っていたが、後年「始メ」と改名して引退した。

 経歴は、1914年発行の『浪花節名鑑』に詳しい。

 氏は技倆老巧、文久二年和歌山海草郡黒江町四五九に生る、幼少の頃より遊芸を好み甫めて十一歳の時御殿医板原安斎(恭安斎)の門下となり小信と称して後座長となり京山花丸と改め各地に好評を博し秘蔵弟子花光に二代目を譲り始と改め元老となり大正三年一月十三十四の両日大阪北堀江高等演芸第四廣澤館に於て引退披露大会をなしたり。

 明治半ばには既に一枚看板で、大阪の寄席や地方巡業で相応に活躍していた。まだ駆け出しのころの桃中軒雲右衛門と交友があったという。

 1886年、娘・かめが誕生。この子は三味線曲師となり、三代目鼈甲斎虎丸に嫁いだ。鼈甲斎虎丸の陰にひさごあり、とまで謳われた鼈甲斎ひさごである。

 ひさごの下には弟も居り、この子は三代目虎丸のマネージャー・辻松緑となった。始メは子供に恵まれたといえよう。

 1898年2月、三河家梅車の妻のお浜と駆け落ちをした吉川繁吉(雲右衛門)と梅の屋でバッタリ再会し、彼を保護している。師匠の恭安斎に口を聞いて、繁吉を関西で修業させるなど、繁吉の援護をした。陰の功労者といえる。

 1899年、弟子の花光に「二代目花丸」を譲渡し、自らは京山始メと改名した。しばらくこれで活躍していたが、21世紀に入ってから患うようになり、1913年に引退。

 晩年は雑用宿をやっていたらしく、娘と息子の稼ぎや活躍を楽しみに暮らしていたという。『浪曲旅芸人』に、

  虎丸先生の夫人が大阪広沢館の雑用宿をやっている京山始メ(初代花丸)の娘かめ、芸名ひさご、その名曲は東西を通じて第一人者とうたわれ、虎丸の名声はこの名曲師に依るところ甚だ多しと聞えていた。

 という一節がある。没年は同著から調べた。

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