節真似タレントの隅田梅若

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節真似タレントの隅田梅若

 人 物

 隅田すみだ 梅若うめわか
 ・本 名 宮本彦三郎
 ・生没年 1912年9月20日~1973年8月16日
 ・出身地 埼玉県大桑村(加須市)

 来 歴

 隅田梅若は戦前戦後活躍した浪曲師。本業の浪曲よりも、同業者の節真似や司会の方がうまいという不思議な人物であった。戦後のラジオブームで売り出したタレント浪曲師の一人である。

 出身は加須市。地元では結構知られた人物だった事もあってか、『加須市史 人物編』に経歴が出ていたりする。それを参考にした。

 隅田梅若は、父宮本福太郎、母けさの四男として大桑村大字川口に生まれた。男五人、男三人の八人兄妹の四番目で、家は代々続く農家。

 子どもの頃から浪花節が好きで、幼い頃から畑仕事の傍らで浪曲を唸るという浪曲のファン。

 身体は小柄であったが、声量が豊かなことは浪曲界でも有名であったといわれ、郷里でも田植え後、三番草を取るころになると、たんぼの中から聞きほれるようなみごとな声でよく浪花節を唸っていた、と後年古老や友人が語っていたという。

 地元の大桑尋常高等小学校を卒業。浪曲師になる夢を叶えるべく上京。1937年、大御所の三代目鼈甲斎虎丸に入門。師匠について浪曲を学ぼうとするものの、虎丸は間もなく卒倒。1938年、虎丸を失って孤児になってしまった。

 虎丸の兄弟分であった東家楽燕に誘われ、彼の門下となった。多忙な楽燕からは芸がなかなか盗めないことを知った梅若は、楽燕と仲が良かった富士呑海の事務所に転がり込んで、彼の売り出しを受けた。呑海から色々なネタや呼吸を教わり、メキメキと頭角を現す事となる。

 一方、呑海にネタを習おうとしたものの、「そこで男が刀を抜く、切りつける」みたいな全く中身のない話を見せられて、ネタが取れなかったなどという笑い話もある。

 1939年2月、浪曲界2年目にしてさっさと独立している。楽燕の庇護や当人の華々しい売り出しもあったのだろう。『読売新聞』(1939年2月11日号)に、

隅田梅若獨立す 浪曲の隅田梅若はこんど獨立することになつたので十二日午後一時から九段軍人會館で披露演奏會を催すことになつたが、梅若は浪曲に志を立てゝ隅田公園で練習した因によつて隅田梅若としたもの
武蔵、伯猿、奈良千代、〆友、華千代の僚友が應援する

 とある。『加須市史 人物編』では1944年改名とあるが、これは間違いであろう。

 芸名の由来は、隅田公園のそれと悲話として伝えられる『隅田川伝説』――いわゆる「隅田川と梅若丸」をかけているのだろう。

 主に楽燕系のネタを読んだらしく、「父帰る」「赤垣徳利の別れ」「垣見早苗と大石の出会い」「涙の点呼」「召集令」などが十八番であったという。巧みな声量と美声で、人気があったというが、いまいちパンチに欠けるきらいがあったとも聞く。

 一方、音勘に鋭く、他人の節回しをすぐに覚えられるという天性の技量を有しており、多くの浪曲師の物真似を得意としていた。戦後はこの物真似を中心に食っていく事となる。

 戦時中はキングレコードの専属になっていたそうで、1939年5月の京都松竹劇場の公演記録に、

○五月二十三日〜 松竹劇場

しんこうぼういずシヨウ われらの楽園 十景
【出演】新興ホツトボンボンズ(豊島園彦 日比谷公 浜美奈登 丸の内街男 銀武良夫 御里夢忠)オールジヤパンスヰングオーケストラ演奏

土産のりんご 二場 宮村五貞楽大一座

田中祥弘作 雷門五郎脚色 高木益美編曲
かつぽれ法界坊 四幕 かみなりもん舞踊座 第一回公演 【出演】雷門五郎 雷門緑郎 実川泰正 浅野八重子 浅野百合子 御室和子 日高松子 竹久よしみ 桜井京子 水上靖子

浪曲 キングレコード専属 隅田梅若

漫才 【出演】溌剌新漫才 酔月楼とり三・中井染丸 兵隊漫才 ハリキリ麦兵・トツカン花兵 秋山ヒゲ虎・富士野芳夫 音曲漫才 若葉サヨ子・富士容子

 とある。

 1939年10月には、陸軍恤兵部の依頼で軍事慰問にも出ている。以下はそのメンバー。

一、往航 昭和十四年十月十三日宇品出帆秦皇島行 
二、復航 昭和十四年十二月上旬塘沽發宇品行

A班 陸軍恤兵部主催 北支方面皇軍慰問團人名表(八名)

藝 目    藝 名    名 前    年 齢  住 所
浪 曲    隅田梅若   宮本彦三郎  二八才  浅草區田島町七七 
三味線    東玉子    横田たま   三九才  浅草區蔵前鳥越ニノ一四 
漫 才    朝日日の丸  尾高一正   三三才  下谷區入谷町二三七 
 同     同 照千代  石川市子   二三才  下谷區入谷町二九四 
音 曲   浮世連小まん  坂本藤尾   三三才  浅草區芝崎町一ノ八 
 と     同静子    鰐淵静子   一九才  浅草區田島町八〇 
舞 踊    同春江    逸都築春江  三二才  浅草區千束町一ノ一 

 戦後、浪曲の検閲がうるさくなった事もあってか、節真似を得意とした梅若は放送や舞台で抜擢されるようになった。節真似で時間がつなげ、かつ物真似で逃げられるという便利さも買われたのだろう。

 1946年2月24日、「節真似」としてNHKに出演。

 1947年3月7日、NHK2に出演。

 1951年6月18日に開催された「第二回新作浪曲競演会」に出演。珍しく浪曲の新作を披露したものの、入賞は逃した。読売賞(優勝)は木村小重友(国友忠)「銭形平次」。

 ほかに、東家若燕(四代目三楽)、木村忠若、寿々木寿々若、辰巳幸穂、二代目玉川福太郎(三代目勝太郎)、三代目浪花家辰之助、廣澤虎之助(三代目虎造)、廣澤竜造、富士乃たか奴(富士琴路)が出演している。

 1955年3月30日、東京放送に出演し、「子宝武士」を放送している。

 同年9月9日、ニッポン放送より「勧進帳」を放送。 

 戦後は民放開設とラジオブームに乗じて、節真似の実演で人気を集めた。1956年3月、東京放送の「浪曲天狗道場」の審査員として参加するようになり、審査委員長の相模太郎、審査員の前田勝之助と共に人気を集めた。

 後年、前田勝之助が離脱して「浪曲歌合戦」に流れた事もあって、「浪曲天狗道場」の顔となった。相模太郎と共にユーモアあふれる選評や番組進行に多くのラジオファンを味方につけた。

 浪曲人気の衰退が現れるようになったころ、子供たちを連れて「隅田ファミリーショウ」を結成。歌謡浪曲漫才で売り出し、浅草松竹演芸場などに出演するようになった。

 そのメンバーの一人が、娘の隅田小梅であった。彼女は2000年初頭まで音楽漫談家として活動していた。

 しかし、その活躍も束の間、癌に倒れ、闘病生活を送る事となる。最晩年の様子は『加須市史 人物編』に詳しいので引用しよう。

 その後、子どもたちの芸能界入りに伴って「隅田ファミリー・ショウ」を結成、歌謡浪曲のボーイズとして息子や娘(隅田小梅)たちと組んで劇場・寄席に出演し、評判をとったが、昭和四十六年九月一日、五十九歳のときに自宅で倒れ療養生活に入った。そして、二年後の同四十八年八月十六日、ついに薬石効なく肝臓癌のため死去した。享年六十一歳。没後、郷里の川口の西蓮寺に葬られた。法名「芸道彦誠信士」。

 

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