雲右衛門番頭の倅・桃中軒峰右衛門

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雲右衛門番頭の倅・桃中軒峰右衛門

 人 物

 桃中軒とうちゅうけん 峰右衛門みねうえもん
 ・本 名 大木 仁一郎
 ・生没年 1891年~1958年8月13日
 ・出身地 長崎県

 来 歴

 桃中軒峰右衛門は、雲右衛門の支配人で良き相談役であった峰田一歩の養子で、雲右衛門亡き後、雲右衛門の芸風の遺鉢を継ぐ存在として人気を集めた。

 『都新聞』(1920年1月22日号)に少し経歴が出て居るので、参考にすると――

「長崎県出身。長崎中学校卒業後、桃中軒雲右衛門の門下に入り、桃中軒雲洋と名乗る。入門と前後して、雲右衛門支配人であった峰田一歩の養子となり、峰田の薫陶も受けた」云々。

 当時としてはなかなかの高学歴の持主で、当人もインテリ肌で知られたそうである。

 峰田の関係もあってか、雲右衛門の覚えもめでたく、巡業や劇場口演で前読みを勤めさせてもらえるほどであったという。

 1916年に雲右衛門と生き別れた後は独立。養父・峰田に誘われる形で各地を巡演して腕を磨いた。

 1920年1月、養父峰田が温めていた「峰右衛門」を襲名。1月26日より3日間、新富座で襲名披露を行っている。『都新聞』(1月22日号)に、

 ◇故桃中軒雲右衛門の総支配人峰田一歩君の養子、 大木仁一郎君は長崎中学を卒業後、故雲右衛門の門弟となって芸を研き、雲洋の名が可なり浪界に知られたが、養父の一歩君が故人の生前に貰ひ受けてゐた桃中軒峰右衛門の名儀を大木君に襲がせる事となり、来る廿六日より三日間、新富座で名弘め浪花節大会を開催する事になった。右に就き、二十日の夜、新橋竹之家で試演会を開き、新峰右衛門君が得意の大石内蔵之助生立中の一節を演じたが、節廻しの巧さは雲右衛門の再来かと疑ふばかりの生写しであった。 新富座の初日は「村上喜剣」と「安兵衛婿入」であるさうな。(葛葉生)

 その後は、養父・峰田の「農村慰問の充実」に従って地方巡業をし、峰右衛門の名を広めることに腐心した。

 1920年4月、故郷長崎で興行を行い、錦を飾っている。

 1920年10月1日より3日間、京都国技館で峰右衛門一行として公演を行っている。

 雲右衛門譲りの節とネタで雲右衛門の生き写しとして評価を得た。影法師といえばそれまでだが、少なくとも正統的な継承であったという。『マウイ新聞』(1931年9月9日号)の中で松崎天民が、

雲右衛門の節に至っては断じて何人もこれを模倣することができない雲右衛門の歿後、此処にも彼処にも桃中軒を名乗る者が現れ、中には天中軒雲月など云ふやうな、別派が現れたけれど、似ても似つかぬケレン節であつた。 
 僅に峰右衛門と云ふ若手が居て、雲節の正脈を唄つて居るが、これとても仔細に吟味すれば、僅に個人の節調を彷彿すを程度に過ぎない

 と評している。なかなか厳しい批評であるが、しかし、多くの雲右衛門もどきが堕落して、歯牙にもかけてもらえない中で、辛口の松崎に「正脈」と言われるだけ、相当な芸を持っていたということにはなりそうである。

 1925年7月、アサヒレコードより『大石山鹿護送』を発売。

 1925年12月、ツルレコードより『横川勘平』を発売。アサヒレコードより『赤垣の禁酒』を発売。

 他にも同時期に「大石久馬貰ひ」「安兵衛婿入」などを吹き込んでいる。一部は日文研で聴ける。

 妻は、春風軒龍子と名乗り、曲師をやっていたという。

 1926年春、朝鮮の興行師に招聘され、朝鮮巡業。4月22日同地に到着し、しばらくの間、朝鮮巡業している。この時、京山派の浪曲師数名と、峰丸と称する弟子を連れている。

 その後は数少ない桃中軒の数少ない直門として活躍を続けた。雲右衛門門下の中では成功した部類と言っていいだろう。

 1926年7月4日、名古屋放送より『梶川の粗忽』を放送。

 1927年10月10日、JOAKより『大石山鹿護送』を放送。

 1930年7月27日、JOAKより全国中継『梶川の大力』を放送。

 1933年4月、陸軍派遣で大連を慰問。17日に神戸を立ち、20日に到着し、しばらくの間、大連を巡業して居る。

 1943年、戦争の悪化や経済的な事情で浪曲界から足を洗い、北九州の炭鉱に就職。

 戦後もサラリーマンとして働いていたが、1953年、突如復活をしてちょっとした話題になった。『朝日新聞』(1953年4月5日号)に、

桃中軒雲右衛門の高弟で、昭和十八年芸界を引退した桃中軒峰右衛門が十年ぶりに再起、六日夜四時半から丸ノ内保険協会講堂で復活ひろう公演する。
峰右衛門は大正五年雲右衛門死後、二十数年間雲右衛門節の名人として活躍、故望月圭介氏から師匠以上と激称された人で、戦時中北九州の炭鉱に就職、今春定年退職を機に再起したもので、当夜の口演は「大石久馬貰い」「大石山鹿護送」「梶川与惣兵衛」

 とある。

 その後5年ほど活躍して、1958年に亡くなった。

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