雲右衛門の食客・京山福右衛門

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雲右衛門の食客・京山福右衛門

 人 物

 京山きょうやま 福右衛門ふくえもん
 ・本 名 杉浦市松
 ・生没年 1881年6月10日~1941年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 京山福右衛門は戦前活躍した浪曲師。京山恭安斎の弟子であったが、桃中軒雲右衛門に惚れて雲右衛門に弟子入り。「桃中軒福右衛門」と改名して、雲右衛門について旅巡業を続けた。

 生年月日と本名は『芸人名簿』より割り出した。

 正岡容『雲右衛門以後』によると、元々は車夫だったらしいが、わけあって浪曲師に転向。

 大阪の京山一門の宗家・二代目京山恭安斎の弟子で「京山福丸」と名乗っていたが、雲右衛門の売り出し前後で(大阪へ流れ着いた時か?)、雲右衛門の弟子になり、「桃中軒福右衛門」と改名。

『浪曲旅芸人』によると、

福右衛門師は前名京山福丸、雲右衛門に預けられて桃中軒を名乗っているが、もともと二代目恭安斎の門人、初万の一家である。

 との由。

 雲右衛門についていたころ、牛右衛門こと宮崎滔天にも出会っている。ほんの一時期、滔天と手を組んで諸国を巡業した事もあった。

 雲右衛門の人気絶頂を迎えた後も長らく師匠に仕え、師匠の前読みとして活躍。そのおかげで、桃中軒一門の中でも相当な雲節の理解者となった。

 1911年には、雲右衛門満洲巡業に伴い、前座として同行。師匠のオマケであったものの、相当な人気と喝采を得、いい思いをしたという。

 1915年頃、雲右衛門より独立して「京山福右衛門」と改名。雲右衛門も理解の上での独立だったらしく、鶯童が雲右衛門の芸を学びに来た際も「福右衛門に教えてもらえ」とアドバイスを与えている。

 同年、雲右衛門の紹介を受けた鶯童が南霞町にある福右衛門の自宅に出入りするようになる。師匠の紹介だけあって、福右衛門は鶯童を邪険にする事なく「懇切丁寧に一句一節を口伝してくれた」という。

 この雲節を目の当たりにした鶯童は人を引き付ける声の出し方を会得したそうで、自分の芸の転換期の一つになったと自伝で回顧している。

 余談であるが、この雲節の会得に目をつけたのが、鶯童の親友であった京山幸枝。幸枝は鶯童から雲節のヒントをもらい、独自の「アンガラ節」を完成させた。ある意味では、関西浪曲の大骨の基礎を二つも生み出した源流ともいえなくない。

 1917年暮れ、「桃中軒福右衛門」名義で朝鮮半島を巡業している。

 1918年12月、オリエントより「猪名川角力場」を吹き込み。

 1919年秋、京山水月の一行のモタレとなり、再び朝鮮に渡っている。この時の名義は「京山福右衛門」である。

 1921年7月21日封切りの帝国キネマの映画「赤穂義士 大石妻子の別れ」では浪花節を担当。なかなか人気を集めたという。

 雲右衛門の格式を保つ大きな芸だったというが、遂に大看板になる事はなかった。ただし、鶯童という優秀な後継者を得、さらにそこから京山幸枝に繋がる事を考えると、重要なフィクサーにはなりうるのではないか。

 1941年頃の番付まで「長老」「旧幹部」として参加している様子が見える。鶯童が浪曲旅芸人を執筆していたころ(1960年代初頭)には亡くなっていたらしいので、戦後まもなく没した模様か?

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