大陸浪人の弟・桃中軒小雲

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大陸浪人の弟・桃中軒小雲

 人 物

 ・本 名 志田 ?
 ・生没年 1887年頃~??
 ・出身地 横浜?

 来 歴

 桃中軒小雲は、戦前活躍した浪曲師。名前の通り、雲右衛門の弟子で「雲右衛門の後継者」を自負する程の有望株であったが途中で廃業した。兄は茂田学という大陸浪人で、雲右衛門の良き理解者であった宮崎滔天と深い交友があったと聞く。

 出身等は謎が残る。『続々歌舞伎年代記』の記事を見ると、「横浜出身の桃中軒小雲……」という宣伝記事があり、ここから察するに横浜生まれのようであるが、不明。

 梅中軒鶯童は『浪曲旅芸人』の中で、

 あの頃、桃中軒小雲の実兄で茂田学という早稲田出身の浪人が東天師の黒幕で活躍していたことが思い合わされる。

 と触れている。東天というのは、宮崎滔天ではなく、鶯童の友人で関西きっての名人と謳われた八洲東天の事。この東天はやたらにアジア主義・日本主義の人物で「国粋会」というアダ名を持っていた。

 兄を慕って旧制中学まで出たようであるが、兄の紹介で宮崎滔天や桃中軒雲右衛門と出会い、彼らの志に感銘。学業をほっぽり出して、浪曲師になってしまったという。

 弟子入り前後の事は、『浪花節倶樂部 雲』(1912年10月号)の「売り出す迄」という自叙伝風のインタビューに詳しい。日文研のサイトで読めます。曰く、

△僕が先生(雲入道を指す)の所へ弟子になつたのは丗八年頃でしたm先生が丁度横濱の喜楽座に開演つてお出の時、僕の兄と先生とは長崎時代から知己だつたので左様いふ関係から入門を許されました。横浜を打ち上げると直に新富座、僕は初めて新富座で甲越軍記か何かを演りました、勿論サラです。新富座は僕の為めには忘るべからざる初舞台なんです。僕は其の頃素前座でゐながら大胆にも心の裡には知牡蠣将来に於て天下の浪界を風靡して呉れやう位の大望は懐いてゐたのです。

 雲右衛門が新富座に出たのは、1907年の気がするのだが、その当たりは小雲の勘違いだろうか。何はともあれ入門したのは事実である。

 その後、雲右衛門について各地巡演。なけなしのお小遣いから石油を買って勉強を続け、「浪曲で天下を取るには大綱を得ねばならない」などと小難しい事を考えていたという。

 1909年、一度独立し、雲右衛門養子の巴右衛門と旅をしていたという。しかし、いつまでも人の下で演じているのが悲しくなったらしく――

 △其の後、四十二年の秋若先生(今の巴右衛門)が新富座で旗揚げされて一年許り一緒に方々歩いてゐました。モウ大丈夫と云ふ自信が出来た譯でも何でもなかつたですが、何時迄も他人の前を演つてるのが口惜しさに、僕の根拠たる横濱羽衣座に、乗るか反るかの旗揚げをしましたのは丁度二年前の四十三年の七月でした。今から考へると可笑しいぢやありませんか、其の時卓子掛が僅かに一枚、前座が唯つた一人限り、全然血気の勇に煽てられたんですよねえ、名誉心とか功名心とか云ふものに焚きつけられたんですねえ、而も義士伝の長講三席ですよ。失敗でしたねえ其の時は……。 

 しかし、公演は失敗。巡業で何とか生計を成り立たせる状態にまで陥ったという。しかし、兄の援助や贔屓の援助があって、再起。1911年1月、再起をかけて羽衣座に出演。

 △羽衣座を首尾よく、否々首尾悪く打ちあげて千葉県地方を巡業し其の年の十二月一旦帰りまして、翌くれば昨年の一月、同じ横濱で二度目の旗揚げです。今度は兄の知己なる縁故で薩摩琵琶の大家永田錦心氏や、兄の先輩たる宮崎滔天先生が補助として出演して下さる事になつた、……エ兄ですか、兄は滔天先生と同じ早稲田の出身です。此時には又福本日南先生の応援も有犬飼木堂先生からは緞帳を頂戴する。御蔭様と非常な人気で開場の五日間は大入満員続きでした。

 という。これにより、雲右衛門にも認められたそうで、一躍男をあげた。『都新聞』(1911年1月22日号)にも、

◇中学時代より浪花節を嗜み、遂に雲の弟子と成りしが、今回、横浜の紳商、早稲田有志の後援で、廿四日より横浜羽衣座に旗上げなす。 犬養毅氏は緞帖、福本日南氏はテーブル掛を贈しと。 

 とあり、『都新聞』(2月2日号)には、

◇横浜羽衣座を三十日に打上げ直に東京にて興行の筈なりしも、都合にて水戸から仙台に乗込み、三月上旬上京すと。同人は本年廿四才。

 とある。その後は劇場や寄席を中心に活躍。

 1916年9月、新潟十日町へ巡業。『十日町新聞』(9月15日号)の中に、

◇浪界の第一人者たる桃中軒雲右衛門の高弟たる桃中軒小雲入道は来る十七日より旬街座へ出演する事に決せり。入道の得意演題は、義士銘々伝にして、一行の顔触れは、雲男、小太郎、峯男、吉田宗右衛門(奈良丸門下)、桃中軒正雪(七歳)等なり。久々にて浪花節なればさぞ大入の盛況なるべし。

 とあり、五日後の『十日町新聞』(9月20日号)にはその舞台を記した芸評が出た。

◇長大の堂々たる歩法で運んでくる書生風がまず気に入った。音量が充分であるだけ聴て居て心持が良い…〽もはやさらばと立上がる…と言うあたりは余音長く心を引き入れる様であった。〽飲んだからとて心まで酔はぬ……と言ふ様な言葉から筋に入る所、節から言葉に移る所は円滑に聴者の胸をスッと下させて実に軽妙なものである。

 その後、旅巡業や寄席で暮らしていたが、1917年に親とも師と頼む雲右衛門が死去。臨終の席には間に合わず、葬儀には出た模様。

 その後も二代目雲右衛門を巡っての一門の醜い争いや、1922年に宮崎滔天に死なれた事もあって、浪曲への情熱を失い、そこへ関東大震災というトドメが来た。

 1925年ころにはすでに引退していたらしく、『都新聞』(1925年1月8日号)に、

◇桃中軒小雲で一時売出しかけた男がある。武骨で正直で無邪気な人物だが、運がわるくて、ちと売出しそくねた。処が、この人近頃は浪花節をやめて興行部員となつて大いに働いてゐる。

 とある。後年はこれで余生を送ったらしい。これもまた人生であるよ。

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