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ガマグチと怪談浪曲・中川海老蔵
人 物
中川 海老蔵
・本 名 田島 久太郎
・生没年 1877年4月25日~1930年2月9日
・出身地 東京
来 歴
中川海老蔵は、戦前活躍した浪曲師。「怪談浪曲」というホラー芝居仕立てのリアルな浪曲と演出で人気を博した。
元々は、深川の綿谷の倅。家業を手伝っていたが、浪花節が大好きで芸人になった道楽息子であった。
浪花亭駒吉と兄弟分であった中川末吉という人に入門して、中川伊達吉。さらに、中川小末吉、中川ガマグチ(口が大きく、財布のガマグチに似ていたからあだ名をつけられた)と名乗る。
明治39年5月、深川桜館で師匠の名前「末吉」を継いで、二代目中川末吉を襲名。鼈甲斎虎丸が助演で出てくれたという。
粋な関東節を得意とし、道端で稽古をして、路面電車や人力車に轢かれかけ、警官に叱られるほど芸熱心な人物であったという。
声はあまりよくなかったそうであるが、間と啖呵に優れたそうである。怪談は極め付きで、観客はおろか、浪曲師までを震え上がらせる出来だったという。
また、義侠心もあったそうで、三河家梅車の一座を逃げ出した吉川繁吉時代の桃中軒雲右衛門をかくまい、三河家一門の追っ手を逃したという伝説もあるが、本当だろうか。
師匠の名前を継いだこともあってか、早くから看板として見なされており、当時としては珍しく渡米までしている。
1912年、講談の桃川燕林に誘われて、妻で曲師の中川よしと共に渡米。
当時のハワイの日系新聞『日布時事』(1912年6月25日号)に、
東伏見宮殿下が英皇戴冠式に御渡英相成りし際渡英の光栄を負へる桃川燕林別名坂本富岳は昨日の天洋丸便にて園部正通なる薩摩琵琶師中川末吉なる浪花節語り及び三味線として中川の妻よしの三名を同伴し来布せるが右は布哇に於て一興行をなし更に米国に渡り各地を興行せんとするものの由にて桃川燕林は須藤正金とは知人の間柄にして又志賀重昴氏とも相知の間柄なりと語り居たりき
到着後、燕林は派手に宣伝などを行ったが、講談という地味な芸種ゆえか入りは悪く、最終日は50人も入らないという始末。一方、夫妻はお座敷などに呼ばれ、燕林を食ってしまう始末であった。こうした待遇の差が後の爆発につながる。
見込みがないと考えた燕林は一行を引き連れ、7月9日に港から船に乗り、アメリカ本土へと向かった。
米国本土に上陸し、巡業を行うも、7月30日、明治天皇崩御の速報が流れる。日系人たちは天皇の崩御を悲しみ、古式にのっとって「歌舞音曲の自粛」を行ってしまった。演芸館や興行も一旦ストップし、燕林一行は窮地に追い込まれる。
数日後、喪が明けたものの、巡演先は少なく、日系人たちも率先して芸を聞こうという態度ではなかった。中川夫妻はお座敷や何やらで稼ぐ手段を得たようであるが、燕林は殆ど無一文になってしまったという。
『新世界』(1912年9月7日号)に、「燕林跡を濁して去る ▲浪花節中川と分離す」という記事がある。ここに燕林の悪行と中川末吉夫妻の怒りが書かれている。長いので概略を記すと――
燕林は一度渡米経験があり、その時には大入続きで大儲けをした。この味が忘れられず、7月中旬に渡米してきたが、思うようにいかず、中川末吉夫妻に人気を食われてしまった。燕林は夫妻に、4ヶ月400円の約束で一座にいれたが、その支払いは滞納。さらに自分が食えないと判ると、夫妻のみで興行を打たせ、それで得た収入をピンハネ。お座敷に行ってもらってきた祝儀を巻き上げピンハネ。
文句を言えば罵倒され、更には出発直前まで見つからず一座であわてていると泥酔して寝ているなどとトラブルが多かった。末吉夫妻はたまりかねて、一座離脱を申し出ると「残り一月あるから出るなら百円払え」という始末。ピンハネ三昧を知っている中川末吉夫妻は激怒し、人を介して離反を申し出、そのまま分離したという――
燕林の言い分もあるかもしれないが、この後燕林は違法スレスレの入国をして移民局から怒られたり、コネをちらつかせてトラブルになったり――と色々やらかしているので、相当末吉夫妻にひどい事をしたのだろう。
一座を離脱した後は、一刻も早く帰国を考えたそうだが、燕林という邪魔者が居なくなった事もあってか、興行師からの仕事が舞い込み、当人たちも旅費を稼ぐべく、10日ばかり、米国で巡演する事となった。
その客の入りはすごくよく、当面の生活ができるだけの収入と地盤は得たようである。22日付の『日米新聞』に「大喝采」「大入り満員」とある。
そんな人気のうわさを聞きつけてか、ハワイの興行師が巡業を依頼。当人たちは戸惑ったらしいが、燕林達にピンハネされる具合もないと見たのか、ハワイに立ち寄る事となった。
9月27日の天洋丸でハワイに移動。
『日布時事』(1912年10月3日号)に『燕林と喧嘩した 中川末吉夫妻寄港』という記事がある。曰く、
桃川燕林とともに渡米したる浪花節語り中川末吉夫妻は今朝の天洋丸にて帰国の途寄港したるがホンオルルには滞在せざる事に取極めたる由尚ほ彼の語る所によれば桃川燕林と一緒に居りては金槌の川流れ到底浮ぶ瀬もなければ燕林と遂に喧嘩をオツ始め断然手を切り自分は一興行をやつて旅費を拵え帰国するものなるが燕林は今頃一寸立往生の姿にて身体に窮し居れりと
その後、しばらくハワイで公演を打って路銀を稼ぎ、なんとか日本へ帰国した。この一件で中川夫妻は海外巡業には懲りたと見えて、出かける事はなかった。
帰国後間もない1912年秋、中川末吉の名跡を弟子に譲り、己は「中川海老蔵」と改名した。その後は寄席や巡業などで活躍。
凄まじく派手な芸ではないが、話術と芝居からヒントを得た立体怪談で人気を博した。衣装やお面など道具にも凝ったため、一部の好事家からは嫌がられたが、寄席や地方では絶大な人気を誇ったようである。
しかし、昭和に改元するとともに体調を崩し、1930年2月、ひっそり息を引き取った。晩年は不遇だったらしい。
怪談の名手として知られた作家・田中貢太郎が「お化の面」と称した掌編の中で面白い事を書いている。
それは初代林家正蔵が秘蔵していた物であった。その正蔵が百六歳の長寿を保って、沼津で歿くなった際、形見として弟子の中川海老蔵に与えたが、海老蔵は昭和五年の秋、女房に逃げられて、その苦悩のうちに病気になり、久しく病床に呻吟していたが、某日杖に縋って、弟子の綱右衛門の家へ現われ、
青空文庫『お化の面』
「人間は、今日在って明日無い命だ、これをおめえにやるぜ」
と云って風呂敷包の中から執りだしたのが、そのお化の面であった。綱右衛門は喜んだ。
「師匠、これを、わっしに」
「形見だから、執っといてくんねえ、乃公の後を継いでくれるのは、おめえだけだ」
海老蔵はそれから夕陽の影法師のような力ない足どりで帰って往ったが、それから一週間して綱右衛門は、海老蔵の死亡の通知に接した。
昭和5年の秋に綱右衛門の前に現れたというのはおかしい(1930年2月に死去しているため)、さらに林家正蔵の弟子であったというのも鵜呑み出来ない(正蔵からネタを貰ったという事は大いにあり得そうだが)。
しかし、この仮面は実在しているようであり、出てくる人物が皆実在した事を考えると、どうも嘘とも言い切れない。昭和四年と考えれば辻褄も合う。
最期はどうも不気味な死に方をしたというべきだろうか――無論小説なので全て鵜呑みにはできないのだが……。
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