楽燕門下きっての海外通・東家燕遊

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楽燕門下きっての海外通・東家燕遊

 人 物

 東家あずまや 燕遊えんゆう
 ・本 名 朝倉 萬治郎
 ・生没年 1891年4月5日~1926年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 東家燕遊は戦前活躍した浪曲師。東家楽燕の門弟で、24歳で渡米。そこから数年にわたってアメリカ社会に半移住し、同地の名物芸人として活躍をすることとなる。

 詳しい前歴は不明。生年と本名は『芸人名簿』より割り出した。明治末に東家楽燕に入門し、「燕遊」の名を貰い、数年ほど前座修業をして一本立ちした模様か。

 1915年3月、東家小楽遊、桃中軒雲太夫、妻川小勇と共にカリフォルニア州へと渡米。四人で一座を組んで巡演をすることとなる。

 現地では「村上喜剣」「倉橋伝助」「岡野金右ヱ門」「血染の軍旗」「乃木大将」「召集令」などといった楽燕系の演題を読んで人気を博していた模様。

 1916年の正月はコロラド州で迎えている。

 1916年夏、東家小楽遊らと別れ独立。当時、在米していた奇術師・俳優の旭マンマルと手を組んで「独立旗揚げ興行」をやっている。

 このマンマルとはウマが合ったと見えて、1917年末まで手を組んでアメリカ全土を廻って居たという。

 1918年には再び独立し、東雲大浪と一座を組んで行動。この大浪とは1年ほど組んで回る事となる。

 1919年11月、巡業先で訪れたカナダの邦人病院で慈善興行を行い、病人を慰問し、売り上げを寄付した事から領事より褒状が贈られた――と『加奈陀之宝庫』にある。

 1920年2月、日系人相手の興行にオレゴン州へとやってきた師匠・東家楽燕の一座に参加。前座兼案内人として師匠に就いて歩く事となった。半年ほど師匠と歩いたのち、師匠を見送り、燕遊は米国本土へと残留することとなる。

 1921年1月、在米中の講談師・鈴木南慶と手を組んで「新講談と浪花節一座」を結成。これでまた米国本土一帯を巡演することとなる。

 この南慶とは 1年ほど手を組み、最終的にはハワイまで巡演している。南慶がハワイに移住したのはこの時がきっかけだったらしい。

 1922年冬に5年ほど続いた在米生活に幕を閉じ、帰国。その後は中堅として売り出そうとしたらしいが、昭和初頭になって消息が途絶える。

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