夭折の麒麟児・浪花亭駒造

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夭折の麒麟児・浪花亭駒造

 人 物

 浪花亭なにわてい 駒造こまぞう
 ・本 名 藤本 善吉
 ・生没年 1879年~1907年7月23日
 ・出身地 東京葛飾

 来 歴

 浪花亭駒造は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。たぐいまれなる天才的な芸と凄まじい努力家として知られ、大幹部や席亭から「浪花節の次世代を担うのはこの男」とまで期待されたというが、28歳の若さで夭折してしまった。

 芝清之『浪曲人物史』によると、葛飾の生まれで幼いころから浪曲が好き――16歳で浪花亭駒右衛門(当時菊造)の門下に入った。

『浪曲の歴史』によると、入門時は「浪花亭小国」と名乗っていたという。

 1901年2月、「浪花亭綾造」と改名し、真打となった。

 駒吉・駒右衛門譲りの関東節に一味加えた、美声に哀愁を漂わせる節を完成させ、20歳にして大看板となった。頭に大きなこぶがあり、それがチャームポイントだったという。ついたあだ名が「コブ」。

 1903年、浪花亭綾太郎が入門している。ただ、師匠からほとんど襲われなかったという。

 1904年11月16日、日本橋喜扇亭にて「綾造改め二代目菊造襲名披露」を実施。師匠の名跡を継いで、大看板となった。師匠の菊造は「菊翁」を襲名し、一線を退いた。

 その後は浪花亭駒子(一心亭辰雄)、春日亭清吉などと並ぶ浪花節黎明期の大スターとして活躍。「松前鉄之助」「忠臣蔵」などを読み通したという。

 1906年5月16日、京橋住吉亭で「浪花亭駒造」を襲名。菊造の名前は他人に譲ることとなった。改名より心機一転、大井に売り出そうとした矢先に病に倒れた。

 最晩年の様子が松崎天民の『新聞記者修行』に出ている。

 △浪花亭駒造の一座 伊勢屋を出た自分等二人は、寝るに早い夜の様を、木賃宿町に見やうと言ふので、向後君を案内者に『公子行』を微吟しながら、富川町を一週すれば、深川の風は殊に寒い、右に折れた突き当り、溝の臭気鼻を衝く、佐野屋が前の右側には、浪花節の席あり矣、太夫は浪花亭駒造を初として、名を聞かぬ連中なれど、斯な娯楽場の在ることは、大に我が意を得たりと嬉しく、停んで内の様子を窺ふ折柄、印半纏の若いのや、杖を力のトボ/\など、銅貨を手にチャラつかせながら、ドシ/\御入来遊ばされる、ここに論ふまでも無く、下層の労働仲間に、二分の教訓と三分の慰藉、五分の面白味を与へる事に依って、漸く識認され来つた当世流行の浪花節、これぞ富川町三千の生きた屍に、人間らしい血を湧かさせる注射と思ふと、何んな物を語って居るのか、気にかかって堪らない、哀切な糸に連れて、語る太夫は誰か知れぬが、外へ漏れる錆びた声で、『徳川天下の断罪場、鈴ヶ森へと出て参る……、牛馬の骨の捨て所……駒も一度は涙をこぼす、』曰く明治疑獄巡査の名誉、忠臣鑑大星の苦衷、大久保彦左衛門一代記。

 1907年6月16日より、八王子鳶金亭に出たのを最後に、病に倒れて死去。28歳の若さであった。「駒造法誉高音信士」が戒名であるという。

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