引退・復活を繰り返す広沢菊路

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引退・復活を繰り返す広沢菊路

 人 物

 広沢ひろさわ 菊路きくじ
 ・本 名 安田 富造
 ・生没年 1875年3月1日~1931年
 ・出身地 奈良県 高市

 来 歴

 広沢菊路は戦前活躍した浪曲師。関西を地盤とし、広沢一門の隆盛に勤めた。弟子には関西浪曲の大幹部・広沢菊春がおり、初代菊春、二代目菊春、澤孝子を経て今の澤一門にまで脈々と通じている。流祖的存在と言ってもいいかもしれない。

 経歴は『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』に詳しい。

丈は大阪の浪華節講演家なり明治八年三月一日奈良県高市郡高市に生る、本名安田富造、芸号を広沢菊路を称す十八歳広沢虎次の門に研究して幾もなく上達し二十二歳の時座長となり各地に巡業して好評を博す最も義士伝、水戸黄門記、伊賀水月等の読物に特長の技を有す殊に各地の有志家より緞帳卓子掛等の寄贈を受くる甚だ多し

 また、『浪曲家の生活』に転載されている大正時代の雑誌の記事によると「広沢菊路 畑の小屋番」とある。

 浪曲系図などを見ると、二代目広沢虎吉に入門し、「菊路」と名乗った。師匠が「菊水」(楠木正成)が好きだった関係から、「菊路」と名付けられた。

 浪曲師・興行師として活躍していた虎吉の庇護下で、虎吉経営の寄席に出演。腕を磨いた。明治末には「青年派」に属し、一枚看板として売り出していた。

 1910年、佐々木善三郎が入門。この弟子に「広沢菊春」と名付けた。後にこの菊春は大阪浪曲を代表する大看板へと成長する。

 レコードや速記などほとんどないため、どういう芸をやっていたのか判然としないが、残されたチラシなどを見ると「水戸黄門」「雷電為右衛門」「柳生二階笠」などけれんを得意とした模様。

 語り口は、非常に穏健でよくも悪くも堅実な芸だったらしい。『ハワイ報知』(1916年12月21日号)の「昨晩の浪花節」という記事の中で、

菊路は水戸黄門其節廻はしは浪花節の型通りにして別に新機軸を見出す事は出来ざれど其話振りに間抜けた所なく声量もあり白詞もよく此れまで布哇に来た旧もの読みにしては矢張り一二を争う演り手と云つてよい

 と新しいところはないが、瑕瑾がなくよく聞かせると批評されている。

 相応に腕のある浪曲師であったが、なぜか引退興行を打ちたがるクセがあり、「引退→復活→引退」という厄介なことを繰り返していた。

 そのくせは、1915年頃から既にあったらしく、梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』に中に、

 広沢菊路師主催の大会に西宮の戊座へ助演に行く。私としては久しぶりの舞台であった。この時は菊路師の引退披露だったように思うのだが、ずっと後の昭和五、六年頃に私も同座して天満の国光席に出演していた事を思うと、引退ではなかったのだろう。ところがある先輩の話に依れば、菊路の引退は二回や三回じゃなかったというようなことも聞いた。そうして見ると、やはりこの時が引退の第一回だったのかも知れぬ。

 とその奇行を触れている。引退魔としては八洲東天と並ぶともいわれた。

 1916年夏、京山若丸のハワイ巡演に同行。前読みとして若丸に随行し、ハワイ全島を回った。若丸を座長に、少年浪曲の京山若一、京山筑女が同行。

 この巡業中、若丸と袂を分かち、一座を形成。1916年12月の事である。今度は菊路が座長で、広沢呂虎、後にハワイへ移住する京山小為が同行している。

 1917年春、帰国する若丸と合流してお名残り公演を打っているが、若丸を見送るやまたハワイ巡業に戻っている。1年以上ハワイにいたというのだから呆れる。

『マウイ新聞』(1917年5月11日号)の投書欄「無駄口」に、その辺りの事情が出ている。

 ▲目下来島中なる廣澤菊路の浪花節は仲々上手で是れ迄来た浪花節の中では奈良丸と若丸に次いでは先づ彼だが惜い事には相方居らんので仲々骨が折れて甘く行かぬらしいがアレでも一二三君が合はして見ようとは実に感心だ、今彼れを呂虎に前席を語らせ其女房に相方を遣らせたらそれこそ五十仙の木戸では札止めの盛況を呈するかも知れん

 結局、ハワイ巡業していた吉川燕流と合流して、二枚看板で巡演する事となった。

 1917年冬まで巡演し、その後帰国を果たした。1年半近い巡業であった。

 帰国後は巡業と大阪の寄席を中心に古老として活動を続けていたが、引退癖はひどく、何度も引退公演を披露してけろりと戻っていたという。

『浪曲旅芸人』によると、昭和6年に没した由。

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