浪曲の女王を支えた京山小吾一

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浪曲の女王を支えた京山小吾一

 人 物

 京山きょうやま 小吾一こごいち
 ・本 名 明石 寿恵吉
 ・生没年 1909年12月15日~2000年7月11日
 ・出身地 大阪?

 来 歴

 京山小吾一は戦前活躍した浪曲師。元々は京山吾一門下の浪曲師であったが、芙蓉軒麗花の関係者に見込まれて、芙蓉軒麗花と結婚。「明石寿恵吉」の本名で芙蓉軒麗花の売り出しに尽力を注ぎ、名マネージャーとしてうたわれた。

 生年は『関西女性録』の芙蓉軒愛花の項目から割り出した。曰く――

夫 寿恵吉 明42・12・15
長女 圭代 昭10・4・19 美容師
長男 諫也 昭25・2・1 追手門学院在

 詳しい経歴は判然としないが、10代前半で京山吾一に入門し、浪曲修行の道に入ったという。

 1928年の番付では、前頭三段目という小さな位置であるが一応ランクインしている。おこぼれもおこぼれであるが、この頃には既に一応一枚看板になっていた証左であろう。

 『浪曲界新緑号』(1952年6月)に詳しい。

 大正末期から昭和の初めにかけて浪曲界の異色として大和式部、広沢若菊、広沢香菊の三姉妹は愛浪家の人気を博したが、若菊、 香菊の二人は二枚看板で全国各地を巡業して廻った。
 丁度香菊が十六才の時であつた。若菊、香菊の一座を組織して地方巡業に出た時、この 一座に京山小吾一というのが座員に加つてい 。当時二十才の美青年で穏健な人柄と藝熱心で一座の者からも好意を持たれていたが、約一月位で事情もよく分からない中に座を出てしまった。

 その後はなぜか浪花節から距離を置き、軽演劇もどきの興行を打っていたという。その傍らで浪曲もやっていたのか、1931年の番付では「新進花形」の一人として取り上げられている。

 1934年に広沢香菊と結婚。結婚に関してのラブロマンスもあったという。

 それから八年後のこと。香菊はやはり姉若菊との二枚看板で大阪は今里の二葉館(ふたばかん)の近くの小屋にかけた時、当時彼女等の支配人をしていた香菊の義兄(若菊の夫)が昼間退屈まぎれに背中を歩いていると近くの寄席にかつている芝居のビラにふと目がついた。
 派手な宣伝文句がずらりと並べてあり、その下に「自作自演京山小吾一」と書いてある。きいたことのあるような名前だと思って歩き乍らしばし小首をかしげて思案していたがはつと思い当ることがあった。「そうだあれは確かに昔の座にしばらくいたことのある男だ。」と気が付くと何んとなく懐しく感ぜられていつの間にかその寄席に足が向いてい た。彼が会って話してみると成程予想した通り小吾一である。
「あの時はいろ/\迷惑をかけたが元氣で よかったね。お前さんは急に居なくなったもんだから随分心配したがあれからどうしていたんだい。表でビラを一寸見たんだが芝居をやっているようだが、景気はどうだい。」
「いやどうも、あの時は無断で飛び出したりして申し訳ないんですが、あれから浪花節に興味が無くなって、芝居はやつて見たら面白いだろうと思い、それからずっと芝居を やっているんです。しかし商売となれば仲々思うようにいかんものですね。」
「そうだつたのかね。しかしそれはまあそれとしてね、お前さんも知ってる香菊ね、ほら広沢香菊だよ。あれが非常に巧くなつてね人気も相当出来て来たんだが今二葉館の先の小屋で演っているんだが、一ぺんお前さんもきいてやってくれないだろうかな。あれから丁度八年振りだし香菜もきっと喜ぶだろう。」
「そうですか、それじゃあ一つ今夜お伺いしてきかせて戴きましょう。」
 と二人は再会を約して其の場は別れたが、小吾一は早速その晩菊の許を訪れた。 其の晩の菊の演し物は恩師伊藤円珍作「白痴は神童」の一席であつたが久し振りに接し彼女の浪曲は彼の知っている八年前のそれとは比較にならぬ程の上達を示しており、声、 節、啖呵いづれも女流浪曲界の異色ある存在として人気を博しているだけあって実に巧いものであり小吾一は彼女の藝風にすっかり魅せられてしまった。
「うんこりや巧い。実に巧くなつている。香菊さん久し振りにあんたの浪花節をきいたが大したものですよ。名人藝の域に達していますね。それに白痴は神童という台本が素晴しいものですね。」
「まあ、あなたにそんなに云われるとわたし恥しくなっちゃうけど、でもあなたに讃められるとわたしやつぱり嬉しいわ。」
 明けて二十四になった香菊は藝人には珍しく世間ずれのしていない、乙女らしい清潔さを匂わせて、小一の讃辞に対して恥ずかしさと嬉しさで下うつむいたが首筋から頬へかけてばつと紅葉が散った。その時、何時の間にか傍へ寄って来た義兄が小吾一に声をかけた。
「小吾一君、こいつは相談だがあんたも香菊の浪花節をきいてくれて、あれのいい悪いも分ってくれたじろうし、又浪花節そのもの是非についても感ずる所があったものと思うがどうだろうか、一つ芝居もいいだろうが元のように浪花節に帰って見た……と云つて何もあんたに昔のように演ってもらう んじゃあなくて、香菊の陰の協力、つまりマネージャーになってもらいたいと思うんだが。」
 突然の話しかけに小吾一も一寸思案に戸惑つたが、現在の自分の境遇を考えて見ると、しがない二流の軽演劇の役者では将来を考えると余りにも淋しく不安定であつた。それよりもいつそのこと今云つてくれてるように香菊の協力者になって頑張ってみたら、と思うと前途に明るい希望と喜びがあるような気が してほと/\と心の溢る思いがした。意を決した彼は
「御言葉有難うございます。そんなに云つていて大変恐縮なんですが、私のような者でよかったら及ばず乍ら香菊さんのために仂かせてもらって結構です。」
 と話は一瀉千里に進んでそれから小吾一は香菊の支配人として活躍を始めた。それから 後の二人はいつしか好意以上のものを持つようになり、地味ではあるが美しいロマンスを経て晴れて結ばれたのである。この人こそ麗花の最愛の夫、明石壽惠吉氏であり今や名支配人としてその温厚な人柄と如才ない交際振りは彼女の芸と相俟つて弥は上にも名声を高めいてる。

 その後は広沢香菊との約束通り、すっぱりと浪曲界から足を洗い、マネージャー・明石寿恵吉として妻を支える事となった。

 妻の行く先々について回り、交渉や斡旋、時には仲裁なども行った。香菊の如才なさに加え、小吾一の立ち廻りの巧さは浪曲界随一だったそうで、香菊は女流浪曲師の花形としてメキメキと頭角を現すようになった。

 1940年4月1日、南座「新興演芸部創立一周年記念大公演」に際し、「広沢香菊改め芙蓉軒麗花」の興行を行った。小吾一は裏方として交渉や披露目の準備を行ったという。名前は松竹社長の白井松次郎に付けてもらうなど、話題性は抜群であった。

 しかし、その後太平洋戦争が勃発し、兵役適齢であった小吾一は応召される。残された麗花は幼い子供の育児の傍らで、弟子や仲間を引き連れ「芙蓉軒麗花一座」を結成。単なる浪曲にとどまらず、歌謡曲や浪曲ショーを行うなどして、戦時中の荒波を乗り切った。

 戦後、無事に復員した小吾一は麗花との興行を復活。巡業の手はずや交渉、麗花の弟子の育成などにも力を注いだ。

 1952年には講談社とタイアップを行い、麗花のブラジル公演を実現させた。この興行はちょっとした話題となり、麗花一代の想い出となった。

 1955年、妻の麗花から「歌謡曲を吹き込みたい」と相談され、彼女の提案する曲を作詞。それが芙蓉軒麗花のヒット作であった「浪曲炭坑節」であった。

 この作品は20万枚を売り上げる大ヒットとなり、小吾一は作詞者・明石寿恵吉として栄光を浴びる事となる。作詞者としての腕もそこそこあったらしく、もう数作執筆している。

 1970年代まで妻と共に行動し、「浪曲界の女王」の名声をほしいままに与えたが、流石の麗花も老いや浪曲衰退には勝てず、一線を退いて東大阪に喫茶店を開いた。

 ここでも夫婦仲よく喫茶店を回して穏やかな老後を送っていたという。

 1999年に妻に先立たれた後、彼女の跡を追っかけるように90歳で亡くなった。没年は『演芸連合』より割り出した。

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