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浪花節黎明期の看板・春日井枝女太
人 物
春日井 枝女太
・本 名 吉川 兼太郎
・生没年 ??~??
・出身地 ??
来 歴
春日井枝女太は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。春日井派の新鋭として売り出し、明治末年の東京浪花節界隈の売れっ子であったが、大スターになる事は出来ず、そのまま中途半端に老いてしまったという。
本名は『浅草繁昌記』より割り出した。
経歴等は不明であるが、当時関東浪曲界の名人として謳われた春日井松之助の弟子だったらしい。
明治30年代から新鋭若手として注目されるようになり、春日井派を担う新鋭として目された。
1906年9月16日、北千住小桜亭で真打披露公演を実施し、大看板の一員となった。
1906年10月、『新仏教』に掲載された「浪花節論」の中に、枝女太の芸が批評されている。
▲春日井枝女太君、九月十六日から、真打になった。この君、声もよく、タンカも切れて、前座としては実に惜しい位に思って居たが、さてこれが真打になって、果して客を引き得るがどうかは問題だ。といふものは、この君、甚だ愛嬌のないのが第一の損、寂しい芸風が第二の損である。春日井といへば、夫の最初の浪花節頭取たり松之助君によって、おもきをなした家名である、しっかりやって貰ひたい。ついでだから、忠告するが、この君の語尾が、ア列で終る時に、必ずこれを尻上りに長く引く癖がある。これが甚だ耳障りになること、恰も、嘉市君が、節になって、段々畳み込んで行くその一句一句の初めに、必ず「エ」といふ声を添へる癖と同じことだ、共にやめてほしい。それから言葉遣ひが全体に品が悪い、この点は、真打としては、最も注意を要する。
それでも人気の方は高く、浪花節研究会で活躍するなど、相応の売れっ子であった。
1911年9月、小石川扇亭で「枝女太改め洋々亭晴海」と改名している。しかし、この改名披露はあまりうまくいかず、すぐに戻した模様。
大正初期まで舞台に出ていたようであるが、いつの間にか消えてしまう。正岡容によると、正岡が浪花節を聞き始めた頃までは生きていたらしく、『日本浪曲史』の中で、
春日井一派。今日から二十余年前、私が浪花節がよいをしだしたころ殆んど絶えてなく、僅かに枝女太という老人が唯一人、浪曲睦会に所属していた。
と触れられている程度。
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