関西節から関東節へ・吉川清之助

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関西節から関東節へ・吉川清之助

 人 物

 吉川よしかわ 清之助せいのすけ
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

 来 歴

 吉川清之助は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。元々は師匠譲りの関西節を演じていたが、一念発起をして関東節に切り替え、関東で一廉の真打になったという苦労人であった。

 芝清之の浪曲系図などでは「末広亭辰丸」門下とあるのだが、梅中軒鶯童の『浪曲旅芸人』では「原鳳声」の弟子であり、後年「畠山松雪」と改名した――とある。どちらが本当なのかわからない。ただ、松雪の名前は京山恭安斎のものであろう。

 個人的には「末広亭清風」を名乗った辰丸の弟子であり、その流れで吉川清之助と名乗ったのではないか、と考える。

 当初は「吉川笑莚」と名乗っていたらしく、明治30年代よりこの名前で出演している様子が確認できる。

 1906年より始まった浪花節研究会の会員として抜擢され、春日井枝女太、木村重松、武蔵家嘉市、玉川勝太郎、一心亭辰雄などと共に勉強会に列席。良きライバルと指導を得て、メキメキと頭角を現すようになった。 

 この勉強会で、これまで得意としていた関西節を一切封印し、関東の浪曲師同様・関東節を演じるようになった。

 1906年8月1日より、麹町山市場亭で「吉川笑莚改め清之助公演」を実施し、真打に昇進した模様である。重松、吉右衛門、虎好、虎丸など幹部が列席する豪華大会だったという。

 関東節に移る苦労が1907年2月発行の『芸壇三百人評』の中に触れられている。

二百十三 吉川清之助 関西節の短を捨てて関西節の長をとらんとする頼母しき人、やがて其調熟さば得難きの名節とならん、言葉の妙中々に凡ならず、慢ずる勿れ今一ト呼吸ぞ。

 また、改名直後の1907年1月、『新仏教』に掲載された『浪花節論』の中に、

▲吉川清之助君、第一回浪花節研究会の時、吉川笑莚君として、お初にお目にもお耳にもかかったが、綿密な芸風、将来大に望あるべしと思って居たが、第三回の研究会で、再びお耳にかかって驚いたのは、いつ、どこで稽古をしたものか、すっかり関東節を学び得て、些の間然ところがない位にまで、やつてのけた一事である。生へ抜きの関東節でないだけに、よくその短慮を捨てて、長所のみを学ばむと力めたるがためか、節に力が足らないことと、一句一句の終りで、声が自然に下がって仕まうといふ欠点はあったが、僅な間に、あれほどの上達は、三日見ぬ間に桜かなの感があった。好漢、自愛せよ。

 以来、関東方の大幹部として認知されるようになり、当時の浪花節速記ブームに便乗して、多くの記録を残した。

 1909年、三芳屋より発行された『関東関西浪花節大集会』の中で「左甚五郎」を、1910年、三芳屋『義士銘々伝』の中で「堀部安兵衛伝」、1912年、三芳屋『義士伝競演会』の中で「村松三太夫伝」、1913年、山口屋書店『浪花節究声会』の中で「高田馬場」の速記を残している様子が確認できる。

 大正初期まで活躍していたようであるが、なぜか消息が途絶える。夭折したらしいが――?

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