アメリカ帰り・玉川鶴太郎

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アメリカ帰り・玉川鶴太郎

 人 物

玉川 鶴太郎つるたろう
 ・本 名 満田 乙次郎
 ・生没年 1886年9月10日~1924年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

  玉川鶴太郎は戦前活躍した浪曲師。小金井太郎に次ぐ初代玉川勝太郎門下の古老であったが、当人は本格浪曲よりも浪曲映画の弁士や米国巡業など、奇抜な行動で知られたという。

 本名と生年は『芸人名簿』から割り出した。

 詳しい経歴は不明であるが、初代玉川勝太郎に入門し、「鶴太郎」と名乗る。長らく師匠の家に寄宿し、師匠の経営する「玉川亭」の手伝いの傍ら、浪曲を演じていたようである。

 江戸の粋とあだ名された師匠や兄弟子・小金井太郎とは裏腹に、当人は「義士伝」「血染めの地図」「軍事探偵片山」など楽燕系のネタを読んだという。関東節でこれを演じたというのだからおかしい。

 1912年12月、大正改元ムードの中で「玉川鶴太郎」として看板披露を行った模様か。翌年1月には既に一枚看板として、師匠と共に同行している。

 1913年10月、大阪からやって来た「天才少年」を自称する梅中軒鶯童と一座している。鶯童は勝太郎の身内となって舞台に上がったが、此の時の成績はひどいもので「幻滅の東京」とボヤくほどの散々ぶりであった。

 1922年夏、北都斎謙遊にスカウトされてアメリカ大陸に渡り、彼と共にアメリカ巡業の旅を行っている。

 その中でアメリカ巡業中の桃中軒団菊と合同一座を行ったり、色々と一座している。

 ただ、この鶴太郎以外にも「玉川鶴太郎」を自称した人物が当時のアメリカに実在し、上の広告が果たして「満田の鶴太郎」かといわれると困ってしまう。

 ちなみにもう一人の鶴太郎は、沢井天城という名前で活動弁士も兼業していた。「浪曲活動弁士」として相応に売ったという。

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