ピストル強盗清水定吉・木村重正(初代)

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ピストル強盗清水定吉・木村重正(初代)

 人 物

 木村きむら 重正しげまさ
 ・本 名 井上 喜太郎
 ・生没年 1884年~1935年3月1日
 ・出身地 千葉県 船橋

 来 歴

 木村重正は戦前寄席の浪曲の名人として売り出した一人。本格的な芸を持ちながらもわざとこれを崩し、洒落と毒舌で固めた不思議な浪曲を展開。浪曲研究家・正岡容の大のお気に入りであった。

 長らく経歴らしい経歴は不明であったが、『房総人名辞書』にその名前と足を切り落とした理由が出ていた。丸々引用しよう。

浪花亭重子 本名を井上喜太郎と稱す、明治十七年生、東葛飾郡船橋井上喜八の長男なり、現今東京本所區石原町十九番地に浪花節の若手人として望み嘱せらる、幼より花節を好み十八歳の時浪花亭重勝の門弟となり、明治三十八年二月齢廿二歳にして早くも東京市京橋區八丁堀住吉にて真打の披露をし浪界の逸材を以て知らるゝに至りが明治丗九年九月十八日深川不動前島亭への燕平の助講義として出席し受持の藝題を演じ終りて不動尊に賽し帰路偶々左足に疼痛感じ漸次激甚なる神経痛となりて病勢益々募り捗々しからず明治四十年四月両國矢ノ倉院に於て左足期節以下の大手術を受くるに至り不幸不具者になる、然かも藝道はそれがめに精を凝らし熱心研究の功を積みし音に微妙に今や浪界人気取りの一人として好評嘖々たり、得意の物は八名川庄八、塚原卜伝、観音丹次、祐天仙之助、鍾馗の半平、武藝名人道、國定忠次、宮本後日物語、細川の血達磨等なり、 妻は寿々喜亭米子と称し若手の三弦弾きさして知らる

 なぜか『芸人名簿』には記載がない。その為、生年月日が判らないままである。

 1902年、浪花亭重勝が船橋巡業に来た際、入門を直訴。重勝に許されて、浪花亭一門に入った。当時は重勝の弟子の意味を込めて「浪花亭重子」と名付けられた。

 師匠の重勝や兄弟子の重松から関東節の手ほどきを受け、粋で洒落っ気のある節まわしを構築。すぐさま寄席の観客たちに喝采を持って受け入れられ、4年で真打になったというのだから凄まじい話である。一種の天才青年扱いを受けていたのだろう。

『天鼓』(1906年2月号)の浪曲師批評の中で、

 重勝の門弟に重子といふ者あり、年齢僅かに二十二にして已に真打也、しかも其技藝亦侮る可らざるものあり。

 と、若くして称賛を浴びている。それだけ人気があったということなのだろう。

 事実、同期の東家楽燕や三代目虎丸と一時はライバルと目され、追い越せ追い抜けというほどの人気があったらしく、『朝日新聞』(1908年11月20日号)の中で、 

▲浪花節の人気者 東京でも浪花亭重子、鼈甲斎吉右衛門、東家楽燕が先づ昨今の人気者だが此内の一人を担いで地方廻りをしやうといふ謀反人が現れたとは恐るべし/\

 と称されている。しかし、重正は寄席打ちの芸人だったせいか、後年後れを取ってしまい、天下を取ることが出来なかった。

 この頃、「木村重子」と改名。その理由は、師匠の重勝が、師匠・駒吉の養子で二代目を継いだ駒吉(駒幸)が大名跡を継いだにもかかわらず、廉価かつ投げ売りするような興行や芸を見せ続けて居ることに憤慨。浪花亭を返上して、一門で仲良く「木村」と改名した次第。

 こうしたトラブルがあったせいか、二代目駒吉も名跡を返上し、浪花亭駒幸と改名せざるを得なくなった。

 明治末から大正前期にかけての人気は素晴らしく、『朝日新聞』の演芸風雲録の中でたびたび取り上げられている。曰く、

◎トバシの重子 浪花節の木村重子は人が素性を訊くと「勿論の事だ木村長門守重成の末孫嘘と思ふなら系図を見せてやる」と臆面なくトバすので仲間の者が「左様だらう余まり度胸がいいから」

(1913年4月5日号) 

◎かつ手な重子 みくに座の富士入道を聴いた浪花亭重子が六日まではお茶が濁せよう併し後は滅茶だと貶すと側の客から日外壽座で富士入の前座を勤めたのは確お前だったねえと突っ込まれ「アゝ世間は割に狭いものだ」

(1913年6月28日号)

 1913年5月、神田小松亭で「重子改め重正改名披露」を実施。

 足を切ったから改名した――という説もあるが、これは眉唾である。一つは酒害で一時体調を崩したこと、もう一つは「重子」で女っぽい名前とみられるのを嫌ったというべきだろうか。

 この頃から本格的な関東節を崩し、ハチャメチャな浪曲を演じるようになった。そのせいで劇場やレコードなどといった媒体からは離れる結果となったが、寄席ではアイドル的な人気を博したという。

 正岡容のお気に入りの浪曲師で、名著『雲右衛門以後』の中で、わざわざページを多く割いてまで、重正礼賛を綴っている。

 初代重勝が、船橋興行のさい入門したこの人は、前名を重子。 のち、重正と改名した。
 ひどい醜男で、聲がしやがれて、しかも文句がでたらめであつた。その上に、跛でさへあつた。しかもその魂男の中に愛嬌があり、しゃがれた聲の中に悲哀感が満ち溢れ、でたらめの文句がはづしたやうでざこやら帯をはづしてみなかった。東京で先代横目家助平、大阪で先代桂春団治。この二人の「藝」の系列へ置く可き存在であらう、重正は。
 助平も、春團治も、この重正も年少のときは凡そまつかうな、本格な修業をした。 そして、それらをシッカリ身に納めた。しかも長するに及んで、その本格さを、自ら支離滅裂に打ち砕き、世にも奇妙奇天烈な藝境を聞拓してしまったのである。 重子時代の「褒のお千代」など、まことに本格の語り口であつたと云はれる。
 その本格の日の彼の姿が、最後まで「ピストル強盗、清水定吉」には、のこってゐた。だから、襟を正して、此は聴けた。

 国定忠治、細川の血だるま、宮本武蔵なども読んだが、空前絶後の大ヒットは「ピストル強盗清水定吉」であった。この奇抜な明治の事件簿一作だけで、重正は浪曲史にさんさんと輝く存在になってしまったのだから大したもの。

 ピストル強盗・清水定吉はWikipediaなどにもまとめられているが、明治10年代に実在した凶悪事件である。

 按摩屋を開いていた清水定吉は、大きな家に簡単に出入りができ、また障がい者の多かった按摩は、警察や監視の対象から外れ、暗躍する事が出来た。 

 その盲点を突いた清水定吉は、ピストルを携えて上流階級の家を襲撃。五人を殺害し、数十件にも及ぶ強盗を行った。明治19年冬、清水定吉の行動を怪しいと勘づいた小川他吉という巡査が彼を不審尋問。清水定吉は小川巡査に発砲するも、小川は清水定吉を命がけで捕らえた。小川巡査はそのまま殉死を遂げ、清水定吉は死刑の露と消えた――というのが一部始終である。

 この小川巡査の決死と清水定吉の不思議な境遇が色々取り沙汰されて、「清水定吉モノ」と呼ばれる作品が横行した。今日でいえば事件簿的なそれであろう。当然、誇張や脚色が多く、清水定吉の生涯に沿っているかというと甚だ疑問である。

 元々は三升家一九という人がやっていたネタらしいが、木村重正もこの事件を巧みに取り入れ、自分の演目にしてしまったという。一種のキワモノであったが、これを昭和までやっていて、かつ看板芸だったというのだから呆れた話ではないか。

 このいい加減な節まわしや作品は、正岡容が耽溺しており、その芸の一部始終を、『雲右衛門以後』の中でこうつづっている。

 撫子の提灯を誂へに来て刑事に追はれ、人力車で逃げる蠣濱橋あたりの夏雲よ。
 人形町の夜更けの路次に、目許り頭巾の按摩姿で刑事をまいて逃げ失せる清水定吉が肩置く霜の光りよ。
 本所の家を出た定吉が湯島の牛肉屋だか、その隣家だかへ忍び込むまでの途中の プロセス――つまり泥棒に行く道中附丈けを聞かされて大そうおどろいたことがあつたが、それすら妙な云はれない慈味があつておもしろかった。
 それには重正の異様な顔に、そのまゝピストル強盗があった、定吉の心魂が憑い てみた、彼は定吉に魅されてみたのだらう。
「ねえお客さん、此はエライ泥棒だったよ」
 必らずかう云つた彼だったんだもの――
 いかに重正の歌詞がでたらめであつたか。 

 〽火の車つくる大工はなけれども、我がつくって我がのる、石川縣出身の小川他吉郎巡査が、ピストル強姦縛縄の動
 とこゝまでは語尾に哀しい余韻を引いて、しやがれた聲で歌ふのだが、そのあとが、
 〽こりゃいつか猿之助と小太夫が明治座で演った、ちよつと當時あたしのほかに 誰もやり手のない浪花節だよ」
 と来る。まるでベラ喋ってあるやうに一気に云つてしまふのである。(しかも音エを外してゐない)さらに又、
 〽だからねえ皆さんおしまひまで聞いてね呉れよ
 と来る。さうして、こんな事かでも思ひ出したやうに、
 〽査べましたる概略談を讀み奉る……。  
 とヤケな聲を振り絞って、「アァ草疲れた」とケロリとお湯を飲むのである。 へんにすがれ、へんに頽廃し切ってある。 

 正岡はこの『ピストル強盗』を死ぬ直前まで愛聴しており、戦後弟子入りに来た小沢昭一、大西信行などを前に、酒を飲んでは「火の車~」と咆哮し、レコードをかけては泣き出すという凄まじい酒乱ぶりを見せた。

 小沢昭一や大西信行はその酒乱が嫌で、後に日大の教授となった永井啓夫が弟子入りに来た際、この正岡の酔態を押し付けたというのだから、師匠も師匠なら弟子も弟子といったところ。

 因みにこのレコードは日文研に残されており、聞く事が出来る。流石に「猿之助と小太夫」とはいっておらず、穏健たる節付けとなっているが、投げやりながらも伝法に見せる芸を感じ取ることができるだろう。

 こうしたハチャメチャな節付けや文句は、他の作品にも入れ込んでおり、国定忠治や宮本武蔵がお笑い浪曲になってしまったというのだから笑ってしまう。正岡容は『雲右衛門以後』の中で、

 そのほか、〽通稱全く國定忠治
 とか、
〽旅の疲れでアンヨが痛い
 とか、
〽私も重子改め重正になつちやったよ
 とか、文句は凡そ出鱈目であつた。 そのくせ腹が立つて來ない。
 何か高市の祭礼の件りで、跛のくせに鰭掬ひなどを踊り出したこともあった。道中になると〽浅間出て見よ」の馬子唄をよく歌った。歌ひかけて、
「雲右衛門さんは巧かったねえ」 
 と、きつとかう呟いた。

 と評している。この一部は日文研で聴けるので、聴いてみてください。

 そして、正岡は木村重正の芸を総評して、こう絶賛する。

 明治末から大正初年への浪花節の一ばん卑しいところを尽く具備してをり、その卑しさがまた最大の魅惑となつて、キラキラ燦いてゐた人であつたと云はれよう。
 とても紳士淑女の前では聴かされない浪花節で、その欠点があればこそ何よりも愛さずにはゐられない世にも不思議な浪花節であつた。
 人前には出せないけれど、愛してやらずにはゐられない落魄した親戚のおぢいさんと云ふ表現が、この重正に、適切であらう。
 

 真に名批評であろう。卑しいといえば卑しいのだが、それでも捨てるにはしのびない不思議な出来をしている。いうなれば、クサヤの味、駄菓子の味というべきだろうか。

 1919年5月、帝蓄から『国定忠治』を吹き込み、発売。これは日文研にある。

 1919年7月、帝蓄から『相馬大作神通川』を発売。

 1919年8月、帝蓄から『細川血達磨』を発売。これは日文研にある。

 1920年2月、帝蓄から『梁川庄八』を発売。

 1920年3月、帝蓄から『木曽富五郎』を発売。

 1920年4月、帝蓄から『神田祭血染浴衣』を発売。

 また、スタークトンレコードに『清水定吉』がある。

 1930年2月2日、JOAKの浪花節大会に出演し、『国定忠治』を放送。東家小楽燕の『荒木の太刀風』、吉川綱三『節真似』、木村忠孝の『節真似』。

 1931年1月24日、JOAKより『国定忠治』を放送。

 1931年7月12日、JOAKより『鐘馗の半兵衛』を放送。

 1933年3月15日、JOAKより『大前田英五郎』を放送。

 長年の酒と不摂生がたたり、1935年3月1日没。千葉海神の大覚寺に墓があるという。

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