片づけ上手の春日亭清嬌

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片づけ上手の春日亭清嬌

 人 物

 春日亭かすがてい 清嬌せいきょう
 ・本 名 中戸川 久之助
 ・生没年 1876年8月28日~1950年12月26日
 ・出身地 神奈川県 平塚市

 来 歴

 春日亭清矯は春日亭清吉の門下の浪曲師。芸よりも奇人として知られ、高座の最後に扇・手拭・湯呑を片づける文句を入れ込んだり、「下駄の歯医者」という看板を掲げて下駄屋の浪曲師になったり、と奇行の方で有名になったという。

 あまり売れなかったせいもあってか、情報は多くないが、芝清之が『浪曲ファン』(49号)の連載『浪花節墓誌録5』にまとめている。

 出身は平塚。元々は下駄屋だったそうで、長らく下駄屋に奉公し、下駄の作り方や治し方には一家言あったという。

 24歳の時、春日亭清吉に入門。修行を経て、「春日亭清嬌」という名前を貰った。当時清吉が売り出していた事もあってか当人も寄席や劇場に出演する事が出来た。

 ただ、師匠や弟弟子の清鶴を超える事は出来ず、小さな寄席のトリや劇場の前読み程度の中堅で終わってしまった。それでも芸は相応にうまかったらしい。

 芸以上に鬼神として知られたそうで、自分の持ち時間の終わりが近づくと、

〽そろそろ時間となりましたので、あたりぼちぼち片づけまして…… 

 と唸りながら、湯呑や扇子、手拭、果てはテーブル掛けまで懐にねじ込んで、裸になった机の上に座り、

〽お後改めまた口演……

 と切り口上を述べて、舞台から降りるのが売りであったという。おかしいといえばおかしいが、変に律儀で愛嬌のある所がいい。

 大正以降は、三代目鼈甲斎虎丸と仲が良く虎丸一座の前読みをやっていたという。虎丸が血気盛んな侠客物を得意としたこともあってか、清嬌は師匠譲りの『祐天吉松』『野狐三次』などを封印し、『水戸黄門漫遊記』などのけれんで、お客をうまく回していたという。

 虎丸から信頼をされ、一座を抜ける際には三千円の退職金をもらったという。

 1923年の関東大震災で大きな被害を被った事や、己の老齢を悟った事を機に一線を退き、栃木県小山市へと引っ越した。

 小学校の前に「下駄の歯医者」と大書した看板をぶら下げ、履物屋を開業。当時、下駄や雪駄が普段履きであった事からそこそこ稼げていた模様。

 当時、地方でも浪曲熱が盛んでアマチュアたちが唸っているのに感化された清嬌は、自分の前歴をフルに生かして講師役に収まり、「親浪会」なるアマチュアグループを結成。その元締めとして君臨したという。

 曲りなりにも清吉の薫陶を受け、真打にもなっただけあってか、街の浪曲ファンから慕われ、老若男女問わず多くの浪曲ファンが出入りをしたという。

 その中に、広橋宗二という小学生がおり、いつしか「親浪会」の仲間に加入。地元の披露会や慰問に参加するようになった。

 清嬌はこの広橋少年を孫のようにかわいがり、暇があれば台本の書き方や関東節のカンや節の役目まで教えたという。

 この広橋少年は、高等小学校を卒業後、上京して帽子屋に就職するが浪曲師の夢が諦めきれず、一年で帰京をして、この清嬌を頼って「浪曲師になりたい」と申し出ている。

 清嬌は当初、恩人の三代目虎丸を紹介したが、広橋少年は「ああいう贅沢な人にはついていけない」と断った。さらに虎造を紹介しようとするも「あそこまで人気があると使い走りで終わりそうだ」と話し合って断念した。

 広橋少年が関東節が得意で、なかなか声がいいのを見抜いた清嬌は、「木村忠衛という浪曲師ならどうだ」と当時売り出しの忠衛の所に連れて行った。この広橋少年こそ、昭和末まで淡々と活躍していた二代目忠衛である。

 この忠衛は生涯、清嬌への恩を忘れず、この忠衛のお陰で清嬌の素性が判った――らしい。

 その後も栃木で浪曲三昧の日々を送っていたようであるが、戦争の悪化で仲間たちがどんどんと兵隊や工場にとられる悲劇に見舞われた。

 終戦後もぽつぽつと浪曲指導をやっていたようであるが、老齢の事もあって、間もなく寝付いて1950年に75歳で亡くなったという。

 墓は小山市の現声寺にあるとか。

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