新宿末廣亭の生みの親・末廣亭清風(初代)

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新宿末廣亭の生みの親・末廣亭清風(初代)

 人 物

 末廣亭すえひろてい 清風せいふう
 ・本 名 秦弥三松
 ・生没年 1866年5月~1920年代?
 ・出身地 名古屋?

 来 歴

 末廣亭清風は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。浪曲の腕前よりも新宿末廣亭の創業者として知られる。

 今も東京に残る新宿末廣亭の歴史に必ずと言ってもいいほど出てくる清風であるが(末廣亭の屋号はこの芸名からきている)、そのくせ経歴は殆ど謎だらけという始末である。

 浪曲研究の大家であった芝清之にしても『大衆芸能資料集成』の中で、

 初代 末広亭清風(すえひろていせいふう)
 この人は俗名も、歿年も定かでない。

 名古屋の出身で、初代吉川辰丸の門下となり、辰楽を名乗っていた。
 二代広沢虎吉とは兄弟分の仲だった。末広亭辰丸と改名して上京し、新宿に定席”末広亭”を建てた。(現末広亭の前身)
 後、清風と称し、〈寄席打ち〉の大看板として名を挙げた。 二代虎造、梅中軒鶯童のお内儀さんと同名の、浪界では”三人おとみ”の名で有名な人を女房にしていたが、晩年、末広亭の下足番と馳け落ちされてしまった。

 とお茶を濁している始末である。

 しかし、本名と生年は『浪花節名鑑』に載っていたりする。そこから採録した。

 また、兄がいたそうで、この人は銀座で時計屋をやっていたらしい。羽振りも良かったらしく、『朝日新聞』(1915年3月5日号)のゴシップ欄に、

「浪花節の清風曰く組合から今廃されては困るといふので稼いでるが銀座に兄が時計屋を出してるから廃したって些も困らねえは詰らぬ事を云つたもの」

 とある。

 数少ない回顧録として、『歌舞伎77号』に掲載された「浪花節の来歴」がある。

 関東節は従前からの節廻しですが、上方派は師匠辰丸の工夫したもので、信州で馬子の追分節を聞いて、哀れつぽい面白味があると思ひ、従前の浪花節に「ユスリ」を加へて、調子を一変させたのが、所謂上方節で、これが明治十三四年の頃です。辰丸は紀州の生まれ、本名は後藤辰次郎、廿三年八月歿しました。私は二代目辰丸を襲ぎましたが、近頃その名を譲って今の名に改めました。

 ここで辰丸との関係を詳しく語っている。

 師匠は吉川辰丸といい、中京界隈の名人であった。当初は「吉川辰楽」と名乗り、さらに「吉川辰治」と名乗った。

 本来ならば「吉川辰丸」を襲名する予定であったが、一門との対立で「吉川」を捨て、「末廣亭」と屋号を変えた経緯があった。

 1891年秋、兄弟子の二代目吉川辰丸に襲われてけがをしている。これを機に、「末広亭」を名乗るようになったともいう。「文芸春秋」(1933年5月号)の「浪花節今昔」に詳しい。

 吉川辰治(後の末廣亭清風)の師匠吉川辰丸は生前門下の団の島に二代辰丸を譲ったが、団の島は師の臨終をも見舞はず剩つさへ興 行に藉口して葬式にも顔を見せなかつた。それにひきかへ辰治は晩年師に忠實に仕へ、コレラで斃れたときも親身も及ばぬ孝養をつく したので、其の情誼に酬ゆるため、 師の遺言により門下一同協議して団の島は西の辰丸とし辰治を更めて東の辰丸とした。団の島は内心小癪なと思ふもの四団の事情は悉く自分に不利なため蟲を殺して承諾した。辰治は東京より師の遺骨を携へ師の郷里名古屋へ行き、 門下近親一同うちそろひ法輪寺で 法要を営んだそのあと、有志のものの二次会で飲み直すべく三々五々帰途についた。辰治は吉川文鶴、浪花家辰之助と共に暗い夜道ほろ酔ひ気嫌で藪林の寂しいところへさしかったとき、藪の中から突如として蝙蝠傘ので顔の正面を刺した怪がある。あつと云ふまに仰向けざまに倒れ血は流れた。幸ひ眼球を外れたので 盲目にはならずにすんだが、傷は 四十三年後の今日でもちゃんと遺つてゐる。
 加害者団の島は、辰治の東の辰丸となることに不承不精に承諾は したが、無念やるかたなく待伏せしてみたのである。彼は刺しておいて一目散に逃げかけたが、逃がせるはず辰治の同行者、文鶴、 辰之助等が直ちに其場で取抑へ、 警察へ出す筈のところ面をとつてみれば思ひがけない兄弟子団の島なので、辰治の雅量により内済にした。次の詫證文はその間の事情を語るものである。

印 詫び証文
一、今回故吉川辰丸師匠の骨納めに付名古屋市小川町法輪寺に参詣仕候處共的故辰丸師匠の親分川田善殿より東西二代目を相立てる儀被仰候に付其儀を被是無念に思ひに於て辰治殿の面部に傷を負はせ其上不當なる儀も申上候、且つは負傷の事等と相へ候處蜜に何共申譚のなき次第奉恐縮候に付其節居合せたる御 方々に歎願を仕り右之事件内濟に致吳候様に奉願候に付辰治殿に詫 の儀申込下され候處辰治殿に於 早速承諾致し吳事濟に相成り 以て難有仕合と奉存候爲後中 連署を入置候仍如件

明治廿四年十月廿五日

吉村捨五郎事 二代目吉川辰丸
中裁 吉川文鶴
同 浪花家辰之助
同 浪花繁丸

秦彌三松殿 (秦彌三松は吉川辰治の本名)

後西の辰丸こと団の島が横濱へきて興行するにあたり、同じ姓名の吉川辰丸が同地方に二人あつては頗る紛らしいといふ理由の もとに、東の辰丸(辰治)はさつさと改名した。尤も横濱に席亭を持つ春日井文之助、三絃の澤春吉等が団の島の來演を拒否するといふ勢込みで飽くまでも東の辰丸の為に改名中止を切言したので、其の厚意に心ひかされ、一時師匠譲りの辰丸なる名だけを遺し、吉川姓を末廣亭と改めたが、まもなく名前を清風と改め明治中期を未廣亭清風の名で活躍するやうになった。

 さらに、『国民新聞』(1906年9月2日号)掲載の『浪花節評判記』によると、兄弟弟子との確執で吉川を捨てたという。一文を引用すると――

 生れは紀州で本名を後藤辰次郎といひ、天竜山竹丸の弟子になって浪花節を勉強したのであるが、初代の鼈甲斎虎丸も矢張り此の竹丸の門人で、辰丸とは兄弟々子の関係になってゐる。然し辰丸が一番の高弟で、虎丸は多分十番目位の弟子になって居た。辰丸が全国を廻り歩いたうちで最も受けの宜かったのが名古屋で、辰丸の名は殊の外、同地方には売れ渡った。
 其頃名古屋での真打株といふと此辰丸に浪花家辰之助、 三河屋梅車、鼈甲斎虎丸で、四大看板といって其社会には幅のきいたものであった。其後、辰丸が東京に落着く事となったに就て、折角売り込んだ辰丸の名を廃らせて仕舞ふのは如何にも心惜しい訳と、今の名古屋辰丸に二代目吉川辰丸の名をやって営業させる事となったので茲に始めて先代辰丸と名古屋辰丸との関係は判明したのが、予て今度は此市の二代目一件で此れにも亦混み入ったイキサツがある。今の末広亭清風は始め辰楽と謂って先代に教をうけ、後、辰治となって師の側を放れず勉強をして居たが、先代辰丸が本所二葉町の仮寓でコレラ病に罹って明治二十三年の八月十九日に此世を去ったに就き、其葬儀を営むに際し喪主が無くてはといふので例の名古屋辰丸に急報をして直に上京する様にと申し送ったが、何の返事も無い。最も其前、先代が病気にかゝると直ぐ通知は出したのであるが、其時にも何の返事も無い、前後音沙汰なしといふ仕末なので、死人を前に当なしのものを待って居ても仕方なからうという事になって、其処に寄り集まった其当時の真打株等が協議の末、今の清風其頃の辰治を二代目吉川辰丸として喪主に立て、先づ先代の葬送を済ませ、現に本所回向院に其墓が残って居る。ソンナ関係から清風は二代目辰丸を名乗って営業をしていたが、其後清風が名古屋へ乗込んだ際に名古屋辰丸と二代目の争ひが持上った。
 清風の方にも確とした道理は立てられてあるのだが、何せよ、其時分に関係あった有力な真打ちは大概此の世を去って仕舞って、謂は、死人に口なしといふ有様で、如何も先方をヘコマス訳には往かず、スッタ、モンダの押し問答の末、それならばといふ事から亭号を末広亭とし名を清風と改めて初代となつた。

 この一件以来、吉川辰丸は名古屋より西を中心に、末廣亭辰丸は名古屋より東に、とすみ分けるようになったらしい。

 ちなみに名古屋の辰丸は「団の島」といったらしい。1899年に襲名披露を行っているので、末廣亭辰丸の改名もこの辺りであろう。

 1905年9月1日、弟子の小辰丸に「末廣亭辰丸」を禅譲し、自らは「末廣亭清風」を襲名。神田市場亭で襲名披露を行った。

 清風によると、この「清風」という号は「さる貴顕より授かりし」というのが自慢だったという。しかし、雑誌の『天鼓』(1905年10月号)の中で、

▲近頃面白き吹聴は、浪花節の辰丸と云へるもの、某貴顕に与へられたりと称して清風と改名したる一條也、某貴顕とは果して何者?と聞けば角田真平なりといふ、何だつまらない。

 とモロ暴露されている。角田真平は「角田竹冷」という俳人として知られている。本職は弁護士で、衆議院議員であったというが、由緒正しい貴顕な人――というわけではなかった。

 今日では、俳句運動の旗手の一人からもらったという評価が与えられようが、当時の竹冷の評価は「人妻と不倫スキャンダルを起こした議員」「俳句が好きな変な議員」程度の扱いであり、一部からは嫌われていたという。

 一方、芸の方はしっかりしていたらしく、『天鼓』(1906年2月号)の中で、

 ▲末廣亭清風
芸風の卑しからざるを取る。曾てその「毛剃」を聞く、海岸の叙景に捨て難き所ありき。衣服の損料に金を吝まざるは、憗か顔が何とか成ってゐる為め可し。何は然れ上方節にての統領なるべし。

 と評され、『新仏教』(1906年9月号)の中では、

▲末廣亭清風君 東京で、浪花節組合の頭取といへば、第一が春日井松之助君で、第二が、浪花亭駒吉君、第三即ち現今の頭取は、二代目辰丸君たる末廣亭清風君である。君は、初代辰丸君の門弟で、出藍の誉れがあつたとか。昨年辰丸の名を、その門弟に譲って、清風と改め、今尚盛に働いて居る。この君、声なく、節なく、浪花節としては、ただ斯界の老将軍として、その歴史に敬意を表するのみである。しかし、「言葉」に至っては滔々懸河の弁、のべつ幕なし、殆んど底止するところを知らない位で、しかも、微を穿ち細に入り、聴く者をして、息をもつかせざるは、真に名人と評するべきである。ただ高座で咽を洗ふのと、「浪花節へ来ないアマには、碌なアマはない。」とだけは、やめてほしい。

 と書かれている。看板になるだけの技芸はあったのだろう。

 また、1906年に浪花亭駒吉が亡くなったのを機に「浪花節組合」の頭取に就任(駒吉が倒れた後から事実上の頭取だったらしいが)。リーダーシップもあったようだ。

 1906年1月頃、新宿堀江亭を買収し、「末廣亭」としてオープン。これが今の新宿末廣亭の根源となっている。一部書籍では1910年とかあるが、芝清之の調査では1905年12月限りで堀江亭の名称が消えるという。

『朝日新聞』(1910年11月20日号)に、

▲三百人近くの真打 浪花節の真打は三百人近くもゐるが其内持席は大夢の大仙、大教の京山、清風の末廣、辰燕の小石川、三叟の三燕、勝太郎の玉川位なもので……

 とあるところを見ると既に一家を成していたようである。

 1908年9月、弟子の辰丸が死去。愛弟子の死に哀しんだという。その後、末弟子の辰美を三代目辰丸に名を譲った。

 1909年1月、神田市場亭にて襲名披露を行っている。

 その後は浪曲界の元老として粛々と高座を勤める傍ら、寄席の経営に力を注いだという。

 1911年11月、浪花節組合の役員改選に伴い、長く務めた頭取職を辞任。浪花亭峰吉に禅譲した。

 1912年頃、昭和の名人・三遊亭圓生が出入りするようになる。親の付き合いで出入りをしていたというが、幼い圓生からしても衝撃的な奇行の目立つ人物だったらしい。

 三遊亭圓生が晩年綴った『寄席育ち』の中で、

 末広亭清風 先代が圓窓で真打になって間もなくの頃だったと思います、玉川質店の家作から今度は新宿三丁目の末広のそばへ引っ越しました。当時この席は浪花節の末広亭清風てえ人が持っていましたが、そのおかみさんとあたくしの母とが大変に仲よくなって、始終往き来をしていました。
 この清風って人も随分と変わった人でした。大変な信心家で、家中神さまをどのくらい祀ってあるか判らない、全国のお稲荷さまでここの家にお祀りしてないのはほとんどないてえくらい…………朝行って会おうと思っても、拝みにかかってると、一時間半くらい待たなくちゃならない。夕景にもまた一時間半くらい拝むんですが、実に一生懸命……「商売繁盛、家内安全……」これまァどこでも同じことだが、そのあとがおかしい。「……どうぞ隣席のつぶれまするように、御利益をもちましてお願いをいたします」てんで、つまり隣り近所の席がつぶれちまって、その客が全部自分のうちへ来てくれるようにってんですが、世の中にこんな勝手な頼み方てえのはない。それをあたりはばからず大きな声で拝んでるんですから、聞いてる者たいてい呆れ返ったもんで…………おそろしく癇症な人で、お湯ゥへはいるにも、まず大きな桶で湯を汲んで、ざァざァざァざァ七、八はいじゃァきかないくらい浴びる。中へはいるんだからそんなにしなくったってよさそうなもんだが、あんまり湯を使うんで、お湯ゥ屋から苦情が出たってえます。御不浄へはいって出てくると手を三度ぐらい洗う。お金の勘定をするとすぐにまた消毒したりなんかする。手が着物にくっつくときたないといって始終手を持ち上げてました。いやどうも少し病的なんですね。そのくせ、よく外からとったものを食べてましたが、そういう所がおかしい。
 妙な話ですが、この人は下帯というものを締めない。小用を足してあとが下帯へくっつく、それが汚いというんで……桜紙という柔かい紙でもって包んで、かんじよりでしばっておく、で、おしっこをする度に新しいのと取り替える、とこういうわけなんです。そのおかみさんから聞いた話ですが、風のひどい日に二人で歩いなだいていたら、結わき方がゆるかったんで落っこった…………またこの清風という人はなかなか名代の大道具で、このふくらがったやつへ風がはいって、空中をふわふわ、ふわふわ飛んでったってんですね。よその人が見たってなんだか判らないでしょうが、おかみさんは「あたしゃあんなきまりの悪い思いをしたことがない」って言ってましたが、どうも実に不思議な人で…………。

 と、その逸脱ぶりを披露している。

 1917年頃まで舞台に上っているのが確認できるが、その頃病んだのか、亡くなったのか一線を退いてしまった。

 1922年に起きた新宿の大火(これで末廣亭も焼失)の時には既に亡くなっていたらしいが――その後の権利は、秦弥之助という倅が持っていたが倅は浪曲興行に熱心ではなく、後年北村銀太郎に寄席の株を譲り渡した。

 この銀太郎が再開発したのが今日の新宿末廣亭である。

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