大看板・港家扇蝶(二代目)

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大看板・港家扇蝶(二代目)

 人 物

 港家みなとや 扇蝶せんちょう
 ・本 名 宇田 太一郎
 ・生没年 1880年5月~戦前
 ・出身地 三重県 飯南郡 松江村

 来 歴

 二代目港家扇蝶は戦前活躍した浪曲師。浪花節黎明期より活躍し、名古屋節の名手として一派を立てた。

 経歴は『浪花節名鑑』に詳しい。

 師は明治十三年五月伊勢飯南郡松江村五曲の豪農に生れ財政は裕かであつた所から不自由の味を知らず、春花秋月、幾星霜は矢の如く走つて十六歳の時、廣澤虎丸の門となり天性鈴の如き美音は彼にして鈴丸と称けしめられ、卅年奈良丸が小奈良時代に義兄弟の縁を結び虎丸の門を出で、廿一の歳港家扇蝶の養子分となり名を港家小扇次と改む、明治四十二年師に勝る好評を博し時の樺山大将に愛され大夢の名を賜はりき氏は即ち二代目港家扇蝶となり関東関西にて好評を博しつゝあり

 廣澤虎丸は初代虎吉の門下で、古い浪曲師であったが詳しい事はよく判らない。根が関西だけあってか、節調や話術は関西節に近いものがあった。

 港家大夢に師事してからは、節調も中京節に変えたというが、どことなく関東にも関西にもつかない不思議な芸であったという。それでも実力はあった。

 1909年11月、師匠が「港家大夢」と改名。自身は二代目扇蝶に指名され、師弟で襲名披露を行った。

『朝日新聞』(1909年11月2日号)の告知欄に、

●扇蝶の名披露目會 港家扇蝶は門人小扇次に二代目を譲り樺山将軍の選名により大夢と名乗り昨日より三日間毎日午前十時半より四谷船町大扇亭にて関東関西連合大演藝會を催し尚一日より向十五日毎夜大扇亭及小石川石切橋扇亭似て披露興行を為す由

 その後は、港家の看板として活躍。二代目として相応の地位にいたというが、後年、自身の甥弟子にあたる港家小柳丸などの売出しで陰に隠れるようになってしまった。

 また、大正時代より関西親友協会にいた事も、江戸との関係者や客との距離をとってしまった形になったらしい。小柳丸が満都の人気を集めている時、扇蝶は東西を行き来する生活を送っていた。こうした所にも扇蝶の弱さがあったのかもしれない。

 それでも人気は一応にあり、寄席や劇場ではトリを務めるほどの力量はあった。

 1927年3月、金鳥レコードより『寛政曽我』を吹き込み。日文研のサイトで聞く事が出来る。

 それから間もなくして死去。名跡の「扇蝶」は一門の港家鈴丸が襲名した。

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