雲右衛門と如雲に仕えた桃中軒村雲

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雲右衛門と如雲に仕えた桃中軒村雲

 人 物

 桃中軒とうちゅうけん 村雲むらくも
 ・本 名 今村與七郎
 ・生没年 1888年4月4日~1956年以降
 ・出身地 福岡県糸島郡加布里村?

 来 歴

 桃中軒村雲は戦前活躍した浪曲師。桃中軒雲右衛門の末弟子で、師匠の晩年を看取り、後年は桃中軒如雲一座に出入りして、一座の幹部として活躍を続けた。「桃中軒むら雲」と記す資料もある。

 生年・本名は『芸人名簿』より割り出した。「桃中軒村雲 三 同同同 今村與七郎(明治二一、四、四)」とある。多分これであっているだろう。

 出身地は福岡。関係者に見せてもらった名簿では「糸島郡加布里」の原籍があるという。出典としては微妙な感じだが、上の画像にあげたように桃中軒如雲がハワイ巡業した際の写真や広告にしつこく「福岡県人!」とあるので、福岡出身は間違いはないだろう。

 正岡容『雲右衛門以後』によると、元々土工だったらしいが思う所あって雲右衛門に入門。師匠の晩年に仕える事となった。

 師匠譲りの「忠臣蔵」の他、「烈婦白滝お仲」「水戸黄門」といった軽いネタも読み、芸としてはなかなか品格のあるものだったらしい。

 1916年春、兄弟子の桃中軒如雲と京山恭為の朝鮮巡業に参じ、前座として公演をしている。

 1916年11月、師匠の雲右衛門が死去。臨終の席に間に合い、数少ない師匠を看取った弟子になった。宮崎滔天や遺族と協力して雲右衛門の死後を清算し、葬儀と納骨に立ち会った――と当時の『都新聞』にある。

 師匠亡き後、一枚看板「桃中軒むら雲」として独立し、全国巡業を行っていたというが、あまり上手く売り出せず、当時九州を中心に名声をほしいままにしていた兄弟子・桃中軒如雲の一座に参じ、彼と行動するようになる。

 如雲も兄弟弟子であり、師匠を看取った村雲に目をかける所があったのか、以後20年以上にわたって面倒を見た。

 1918年1月、桃中軒如雲の全米興行に列席し、当初は「如雲並びに村雲」という形で二大弟子が揃うと宣伝されていた。桃中軒雲静、三味線の中村鏡子も同行。

 その後、如雲一枚看板になるが、モタレとして活躍するなど、冷遇はされなかったらしい。

 同年冬、アメリカ本土での興行を済ませ、ハワイへ移動。ここでも1年近く興行を打つことになる。如雲が雲右衛門高弟であり、その名声が既に定着していた事もあり、行く先々で大当たりをとったという。

 1919年11月、お名残り公演をして帰国。その後も如雲に同行。

 1920年8月31日~9月4日、南座で行われた「如雲帰朝公演会」に出演。前座として口演を行っている。

 前半期を雲右衛門、後半期を如雲に仕えた珍しい浪曲師であった。世間に知らしめるほどの人気を得る事はなかったが、九州浪曲界の大親分たる桃中軒如雲に可愛がられ、安定した職場を得られたのは幸せだったのかもしれない。

 1943年3月26日の『大陸新報』を見ると、この年の春、桃中軒如雲一向に入って、中国巡業。木村高衛、林一夫と共に名前が出ている。

 戦後は鎌倉にいたらしく、静かに余生を送っていたという。井口静波『ピンからキリまで』の中で「そこで現在鎌倉の住人、桃中軒村雲に……」という一節がある。

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