古書展の如き浪花節・浪花亭愛吉

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古書展の如き浪花節・浪花亭愛吉

 人 物

 浪花亭なにわてい 愛吉あいきち
 ・本 名 小林 政蔵
 ・生没年 1889年12月27日~1956年春
 ・出身地 東京?

 来 歴

 浪花亭愛吉は戦前戦後活躍した浪曲師。浪花亭愛造門下の俊英としてデビューし、若いころは怪談浪曲で売れ、昭和~戦後は古風な関東節を伝える浪曲師として活躍した。

 前歴等は不明であるが、若くして浪花亭愛造に入門。子飼いの弟子だったという。弟は浪華綱右衛門で、こちらも愛造門下であった。

「愛国」と名付けられ、師匠と共に寄席で芸を磨いた。師匠の愛造、そして大師匠の綱吉、更にその師匠の駒吉と皆関東節の名手だった事もあり、愛吉も厳しく関東節を仕込まれた。そのおかげで晩年まで関東節のエッセンスを伝える芸を見せていた。

 1906年9月に師匠の愛造が死去。その直後に浪花亭愛国として一枚看板を掲げている。16歳にして真打の風格を持っていたというべきだろう。

 先輩に愛吉という人物がおり、彼が浪花亭愛造を一時襲名していた事があった(詳しい経緯は不明)。それで愛吉という名前を譲り受けたらしい。実際は二代目浪花亭愛吉という事となる。その襲名時期があやふやなため、広告などはヒジョーに分かりづらい。

 1915年の芸人名簿ではなぜか「浪花亭愛造」として記録されている。理由は一切不明。勝手に自称していたのだろうか――?

 若いころは、怪談浪曲を得意とし、道具入り早替り怪談浪曲という非常に見応えのある芸を得意とした。お面や衣装を用意し、後見を使って芝居がかりのネタを演じた。

 1916年12月、日蓄より「国定忠治軍鶏籠破り」を吹き込み。浪曲師としては相当早い。

 1917年2月、日蓄より「佐賀夜桜鍋島の猫」を吹き込み。

 1917年12月、日蓄より「百万石槍先の功名」を吹き込み。この頃「鼠小僧」も吹き込んでいる。

 派手な浪曲で注目を集めていたが、1920年に突如怪談浪曲を演じるのをやめ、弟に譲ってしまった。『新演芸』(1946年12月号)の井口政治『浪花節の変り種』にその裏事情が出ている。

大正九年六月連鎖劇流行当時浪花亭愛吉が横須賀の八千代座に乗込むと、某小屋には浪花亭の某一座が廿八人も鶏屋について困つて居ました。クラツカーといふ興行師から何うにかならないかと相談を受けたので、愛吉は某劇団の座長と話合つて怪談浪曲連鎖劇と銘打つて開演仕様と引受けると、次の乗場を横浜敷島座に極めて来ました、此劇場の前の寿亭には常日頃浪花節の連中が世話になつて居るので、寿亭に無断で敷島座へ看板を上げては申訳ないのです。殊に怪談浪曲は盆興行で大当り連日の満員に名古屋の一座は無事に帰へしたのですが、寿亭は親分が北海道に行って留守中で留守の人から愛吉に抗議が出ました。愛吉は詫を云つて二十日間で興行を打止め、寿亭の親分には申訳ありませんから以後怪談浪曲は演りませんと云つて、弟の愛行へ怪談浪曲を引継がせました。

 1923年9月1日、関東大震災に罹災し、家族を失ったらしい。金子光晴は『珍相見』という随筆の中で、

 浪花亭愛吉が、被服廠に避難して一家蒸し殺され、死骸の下敷きになって一人助かった悲しい話……

 と記している。あくまでも噂の範疇であるので判別しがたいが、実際新しい妻を震災後に迎えている所を見ると、嘘でもなさそうである。

 これが本当とするならば、愛吉は本当に運がよく、そして哀しい男である。

 震災後も巡業と復興する寄席で中堅として活躍。震災後、縁があって京山糸子と再婚した。この糸子は、なんと京山派の宗家・二代目京山恭安斎の娘であるという。愛吉は京山宗家の婿にもなったというわけである。

 この頃、メキメキと頭角を現した春日井梅鶯に協力し、一座のトリ前の芸人として全国を巡業した。関西節風でリズミカルな梅鶯の前で、粋でイナセな愛吉が関東節を唸るのが味噌であった。唯二郎は『実録浪曲史』の中で、

先代梅鶯では関東節の浪花亭愛吉が長い間モタレを読んだ。梅鶯よりは年輩で、赤い舞台着で笑わせていた。総じてモタレ読みはネタが広く、控えめの中にも味わい深い芸風の持ち主だった。

 と紹介している。

 人気があった割には、ラジオ進出は遅く、1932年12月15日の「浪花節の夕」が初放送。「五條橋」を口演している。共演は一風亭柳雪、宮川松安、木村重浦。当日の読売新聞に経歴が掲載されている。

 ◇浪花亭愛吉…名人と云はれた初代浪花亭愛造の高弟で前名は愛國、押しも押されもせぬ古看板として関東節のために気を吐いてゐる、三尺もの特に「天保水滸伝」を得意とするがけふはラヂオなのでお上品な「五条橋」を選んだ浪花亭一派独特の渋い芸風はAK浪花節放送の新顔

 1933年12月10日、JOAKの「浪花節の午後」に出演。愛吉は清水市平和堂での公演中だったが途中でUターンして愛宕山のスタジオに馳せ参じた。

 1934年12月25日、JOAKに出演し「弁慶五條の橋」を口演。

 1935年7月12日、JOAKに出演し「戦国美談・天晴男」を口演。

 1936年5月22日、JOAKに出演し、全国中継で「葛の葉の子別れ」を口演。

 同年10月20日、JOAKに出演し、全国中継で「大瀬の半五郎」を口演。

 1937年8月15日、JOAKに出演し、全国中継で「加賀百万石槍先の功名」を口演。

 1938年5月28日、JOAKに出演し、全国中継で「阿部童子丸」を口演。

 同年8月24日、JOAKに出演し「阿部童子丸」。

 同年12月13日、JOAKに出演し「村上喜剣」を口演。

 1939年5月8日、NHK第2に出演し、「紀文と林長五郎」を口演。

 1940年8月25日、NHKに出演し、「五條橋」を口演。

 正岡容はその正統的な関東節を高く評価し、戦時中に刊行された『雲右衛門以後』の中で東家楽浦と共に紹介して、

 浪花亭愛吉は、初代愛造門下である。「蘆屋道満大内鑑」全段を有し、「五條橋」なども演る。また「村上喜剣」もやれば、「佐賀夜桜」「次郎長伝」「豊臣昇進録」も演る。
 関東節の約節を、この人ほど自在に使駆するものはない。もはや声調衰へてはゐるが、得がたき関東節古調の忘れ形見である。
 古書展のごとく尊重していい。

 とまで評した。

 1945年5月、弟の綱右衛門を空襲騒ぎで失う。ささやかな葬儀を挙げ、遺品と未亡人は愛吉が預かった。

 1946年12月、浅草松竹演芸場で、20数年ぶりに「早替り浪曲」を口演。上・中・下席で外題をかえてドタバタとやったらしい。

『新演芸』(12月号)の井口政治『浪花節の変り種』の中で、その裏事情が語られている。

併し幸ひと衣裳、小道具も残つたので愛吉が再び弟の跡を継いで「妲己お百」を口演してゐますが、紋付袴から徳兵衛になりお百になり徳兵衛の幽霊で出て又紋付袴になる五圓の早替り故真夏は大汗です。三味線は関西の浪曲家で四十年前業界を去つた京山の祖恭安斎の娘で震災後愛吉に嫁した人で、早替りの後見は綱右衛門の未亡人が手伝つてゐます。

 12月下席の広告が残っているので引用する。

浪曲劇「葛ノ葉子別れ」浪花亭愛吉口演 五役早替り
落語 林家正蔵         落語 古今亭今輔
落語 雷門助六         落語 三遊亭圓鏡 
講談 一龍斎貞丈        漫藝 女猫八
曲藝 丸一海老一連       漫才 藤原春吉・登美子
漫才 玉子家エンカイ・乙女   漫才 小唄〆奴・捨奴
漫才 吉原家〆吉・錦龍     漫才 大空ヒット・ライト
シヨウ 大空ヒットと混線四重奏  同 近江スリーシスターズ一行

 その後は時折早替り浪曲を演じながら、春日井梅鶯一座のモタレとして淡々と活動をしていたようである。

 1953年の番付には旧幹部として浪花亭奴、木村重好などと並んで紹介されているが、1955年の番付では名前が消えている。

 三好貢『浪花節一代』によると、「昭和三十一年の春に没す」との由。

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