木村派の女流浪曲家・木村年子

浪曲を彩った人々

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

木村派の女流浪曲家・木村年子

 人 物

 木村 年子としこ
 ・本 名 田中 フサ
 ・生没年 1898年12月5日~戦後
 ・出身地 東京 大崎

 来 歴

 木村年子は戦前活躍した女流浪曲師。初代木村重松の弟子で、男の多い木村派の中で数少ない女真打として活躍した。落ち着いた風貌から想像の出来ないほどのだみ声と勇み肌の芸で観客を取り込んだという。

 本名・生年は『実録浪曲史』の中から割り出した。なぜか芸人名簿に名前はない。

 詳しい経歴は不明であるが、明治末に木村重松に入門。木村派において数少ない女流浪曲師として修業を始める事となった。当時、女流浪曲の一団が既にあったほか、吉田や東家では女性一門が形成されていたが、年子はあえて木村重松一門に入った。

 1916年3月ごろより「木村年子」として一枚看板が見えるようになるため、この頃独立した模様か。

 当時は『忠臣蔵』『乃木将軍』といった読物を語る女性浪曲師が多かった中で、年子は重松・重友譲りの侠客傳を十八番に読んだ。「小金井次郎」「祐天吉松」「木鼠吉五郎」「夕立勘五郎」「新蔵兄弟」「国定忠治」などが十八番で、男勝りの塩枯声に流々とした啖呵を売り物にした。

 その後は独立して様々な一座に出入りをした。寄席を中心に活躍し、1920年代には既に女流浪曲の人気株として知られるようになった。

 1930年4月30日、JOAKに出演し「木鼠吉五郎」を口演している。当夜は「女流浪花節の夕べ」と名付けられ、前田八重子、前田節子、天中軒女雲月、花園蘭菊が出演。

 1933年12月26日、横浜へ車で移動している途中、乗用車がトラックに追突し、重傷を負った。『読売新聞夕刊』(1933年12月27日号)掲載の「女流浪曲師四名重傷」によると、

円タク乗客浅草区田島町六四友達会所属女流浪曲師木村年子(三六)は顔面その他全身に瀕死の打撲裂傷、同花園蘭菊と岩崎つね(四三)曲芸師木村いと(四六)の両名は何れも顔面に全治一ヶ月の重傷

 一時は復帰も危ぶまれたが何とか回復し、無事復帰している。

 1935年8月、寿々木米若嬢の一行に参加し、アメリカ・ハワイ巡業へと出かけている。一座の最年長者として君臨し、米若嬢のトリ前を読む名誉を得ている。この一行は爆発的な人気を博し、半年近く在米をしていた。

 アメリカ本土の新聞『加州毎日新聞』(1935年9月6日号)の試演会報告の中で、

試演会の前座は木村年子の「夕立勘五郎」だつた、関東浪曲の巨人木村重友の兄弟子の重松師の弟子だと言ふが、重友師のいい処を取つて独特の関東節を創造してゐる渋みのある若声と節とが非常によく調和して居り、殊に流しに言ふに云はれぬいい節がある。語り口が上品で落ちつきがあり芸も相当なもの、この一座ではもたれを語るらしいが真打ちの貫禄は充分にある。

 とあり、アメリカ本土の日系人新聞『大陸日報』(1935年11月25日号)の中に、

 然し一座中最も渋く且つ精練された語り振りに木村年子を見逃すことが出来ぬ木村年子の小金井小次郎、ぴったり形にはまつて居てしかも年子一流の型を破つた自由な境地も、頗る滞りも、つまづきも無く落ち着き払つて語り了つたは流石に老練の節々が噛み占めて歯ごたへするものがあつた。

 と、なかなか賛美をされている。巡業中は一貫して侠客傳を読み続け、周りの人とはネタが被らなかったというのだから大したもの。

 1936年2月に帰国し、寄席へ復帰。この頃から戦争悪化に伴う寄席の閉鎖や何やらで苦労を重ねるようになるが、それでも古老として舞台に出続けていた。

 戦後一時期まで巡業などで活躍していたらしい。ただし戦後はさえなかったそうで、雑誌や番付に「すでに老け込んでしまった」と揶揄されている。

 しかし、いつの間にか消息が途絶え、番付からも名前が消える。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました