当世風美人・桃中軒桃子

浪曲を彩った人々

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当世風美人・桃中軒桃子

 人 物

 桃中軒とうちゅうけん 桃子ももこ
 ・本 名 堀江 スウ
 ・生没年 1889年5月5日~1965年3月17日
 ・出身地 愛知県

 来 歴

 桃中軒桃子は戦前活躍した娘浪曲師。浪花節黎明期に活躍した吉川善確の娘で、早くから舞台に立ち、アイドル的な人気を博した。「桃中軒」といっているが雲右衛門の弟子ではなかったという。いい加減である。

 父親は東海地方と関西で活躍した浪曲師の吉川善確。その関係か知らないが、当人も愛知で生まれたという。姉は吉川鶴松という三味線弾きで、本名は堀江コツルという(信子というのもあるが?)。コツルは1873年5月7日生れというから、実際は親子のような姉妹であった。

 この鶴松は、後に東京浪曲の大御所・港家扇蝶に嫁ぎ、名曲師として采配を振るったという。そうした後ろ盾もこの桃子の売り出しに貢献したとみるべきか。

 生年は『芸人名簿』から割り出した。

 幼い頃は「吉川花子」と名乗っていた。そのため、一門系図では吉川善確の門下扱いになっている。節に少し難があったが、恵まれた美貌と見事な啖呵で人気を集めたそうで、『実録浪曲史』の中に、

当世風の丸ぽちゃの美人で、声はやや難声でも達者な台詞で〈花子、花子〉と騒がれた。のち三代早川燕平に嫁した。

 と評されている。

 1901年12月16日より始まった神田市場亭の公演では、娘の花子と共に二枚看板で出演している様子が確認できる。爾来、天才少女として売り出した。

明治末に桃中軒雲右衛門が売り出したのを機に「桃中軒桃子」と改名。雲節に転調するなど、色々やったという。もっとも雲右衛門には無断だった由。いい加減である。

 その後は、雲右衛門の名声もあってか、華々しく売り出した。

 1913年3月7日の『二六新報』に、

◇善右衛門「黒田」は物真似が聴けて当人が聴けず、善確「中江篤介」に至っては既に定評ある甲州名物、桃子「岡野金右衛門」は会話が台詞で雲と我流の相の子節、これで大入はイヤハヤ女ならでは夜が明けぬ

 と冷やかされている。

 その後は浅草を中心に活躍。若者や職人衆から凄まじい喝采と人気を集めたという。

 1916年頃、雲右衛門の養女と名乗る桃中軒雲奴と手を組んでいた事もある。

 1926年3月、『ハワイ報知』に「5月頃、桃中軒桃子が渡米する」と報道されたが、交渉決裂し行かなかった模様。

 この頃、売り出しの早川小燕平と結婚。家庭に入った。そのため、浪曲師として舞台にあまり上がらなくなってしまった。

 もっとも、後年まで女流浪曲の花形として番付に載ることはあった。引退したわけではないようである。

 1927年7月31日、JOAKより掛合浪曲『中山安兵衛』に出演。共演は御園玉蘭など。

 1930年ごろ、夫が病に倒れたため、再び舞台に出るという事態がおきた。これは貞女として称賛されて迎えられたらしく、ラジオに出た際も『読売新聞』(1932年2月20日号)で、

 聴くも涙語るも涙 孝子迷ひの印籠 貞女桃中軒桃子の放送

十年ほど前美貌と美声で素晴らしい売れつ子だつたのが桃中軒桃子。其の後早川燕平の恋女房になつて席亭に夫婦で共同戦線を張つてゐたが昨年春から燕平が病気で寝込んでしまつたので生活戦線に大異状を来たし、桃子は夫の看病の傍ら敢然として席亭を稼ぎ廻つてゐる

 1932年秋、燕平が復活。桃子はまた安心して家庭に戻ったという。『読売新聞』(1932年11月24日号)

けふから三日に亘って連続浪花節「田宮坊太郎」を放送する早川燕平は早川辰燕の義弟、妻は桃中軒桃子浪花節夫婦である、二年程病気で寝付いてゐたが最近漸く全快……

 とある。

 戦後は夫が安定した活躍や人気もあった事から相応の家庭生活に収まったらしい。

 芝清之によると、1965年3月17日死去――行年不明とあるが、上のそれから逆算できる。

 それから間もない1965年6月20日、早川燕平死去。妻の後を追った。

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