一心亭辰雄から名前を譲られた天野照子

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一心亭辰雄から名前を譲られた天野照子

 人 物

 天野あまの 照子てるこ
 ・本 名 籠橋 甲子
 ・生没年 1906年~?
 ・出身地 東京 入谷

 来 歴

 天野照子は戦前活躍した女流浪曲師。天才少女として売り出し、大先輩の一心亭辰雄から「浪花亭駒子」の名を許されるほどの実力者であった。

 経歴は第一版の『浪花節名鑑』に詳しい。

 祖先は稲葉藩の家臣だという。

 7歳のときに叔父の浪花亭綱七(駒洲)の養女となり、入門もする。

 1913年7月千葉県の一葉亭にて初舞台。神崎与五郎生い立ちを読んで喝采を得た。

 その甲斐あってメキメキと頭角を現すようになり、一心亭辰雄から「駒子」の名前を譲られ、「浪花亭駒子」。芸に厳しい一心亭辰雄が自身の前名を許す事などめったにない、と関係者を驚かせたという。

 それからは駒州と二枚看板で寄席や巡業で活躍。

 1926年、駒州死去。駒州が倒れた際、黒髪を切って浅草観音へお詣りにいき、病気平癒を願い続けた――という話が残っており、「親孝行の浪花節」として一躍美談扱いされたという。

 駒州の死後、松竹の向山庄太郎にスカウトされて松竹に入社。向山の命名で「天野照子」と改名する。

 松竹の大看板であった鼈甲斎虎丸と義兄妹の契りを結び、大劇場に進出するようになった。

 1927年7月24日、JOAKに出演し、『召集令』を口演している。

 しかし、1930年代に入ると途端に消息が途絶える。一説では結婚したらしいが――

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